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聖書のメッセージ

「救い」の断片

管理司祭 ロイス上田亜樹子
2025.11.2


ルカによる福音書19:1-10

「本当に心がホッとしました」という意味で、「救われました」と言うことがあります。それは、通常の生活の中でも使う言葉かもしれませんが、ではどういう意味で「救われた」と表現するのでしょうか。今日はザアカイという人の話からそのことを考えてみたいと思います。この物語は、「救われた」本質を語るものであり、わたしたちもまた、実は「小さなザアカイ」が存在するのではないか、そんな気持ちになる話です。

 ザーカイは徴税人でしたから、とりあえず食うに困らない暮らしをしていました。農業のように天候や不作に左右されることもなく、家畜の流行病とも無関係で、ローマ帝国の支配が続く限りは、当面は職を失う心配のない、ローマ帝国のために「税金を集める」職業です。

 しかしザーカイは、秀でた才能やスキルがあったわけではなく、そもそも尊敬される職種ではなく、そして人々からは「罪深い男」と呼ばれていた。それは同胞であるにもかかわらず、人々の暮らしを圧迫する「ローマ帝国側の人間」という烙印を押されていたからです。生活は安定し、仕事を失う不安もないけれど、他に何も誇るものがないという現実。そんな自分の虚しさと、この先どうつきあったらいいのか途方に暮れつつ、日々苦しんでいました。

 ところがザアカイは、「イエスという人が町に来る」ことを聞きつけます。胸の中がなんだかざわざわします。自分から話しかける勇気は到底なく、せめてどんな人か見てみようと思ったザアカイが、登った桑の木の下を一行が通り過ぎようとしたその時、イエスさまは顔を上げてザアカイの名前を呼び、あなたの家に泊めてほしいと頼みます。

 ザアカイは、もう何が何だかわかりませんでした。「罪深い」自分が声をかけられるなんて、夢にも思いませんでした。自分と口を聞き、泊まりに行き、おそらくご飯まで一緒に食べるようになるなんて、信じられない思いだったのです。

 ザアカイにとってイエスさまとの出会いは、宇宙がひっくり返るような出来事に感じたのでしょう、気がついたらスルスルと桑の木を降り、イエスさまとお話ししていました。その一連の出来事を通じてザアカイが知ったことは、「こんな生活をしている自分も、愛されて良いのだ」ということでした。それまでザアカイは、イエスさまとの出逢いにより、自分もまた神さまから愛され、神さまの大切なこどもであることを思い出したのです。

自分を愛することを取り戻すと、自分の周りの風景が見え始めます。ザアカイもまた、自分の周りに生きる人々も、神さまが愛されている大切な人であることを認識して行きます。

祈りはすべてを語る

管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.10.26

ルカによる福音書18: 9-14

 今日の福音書は、「ファリサイ派の人」と「徴税人」の祈りを比較するような構成ですが、「勧善懲悪」の話というよりは、神の前に立つ際、得点を稼ぐように神に喜んでもらおうとすると、神の恵みに気がつかなくなり、何が大切なのかも見失う、そういう話ではないかと思うのです。

イエスさまの時代は、律法を守って生きるファリサイ派の人々は、お金持ちではなくても「戒律を守る立派な人」として一目置かれていました。ところが中には、「不正や略奪や不倫もせず、収入の十分の一を献金することができる、断食も規定通り実行できる環境が与えられている」ことへの感謝ではなく、「それを実行できない」徴税人のような者ではないことを感謝するという人々がいて、イエスさまはわざわざそういう人々に向けて、この話をしています。つまり神の助けにより、目指す信仰生活が保たれていることを感謝するのではなく、戒律を守ることのできない人々より自分が「上」であるから感謝する、そんな祈りになってしまっています。他人を見下すのはおやめなさいという話ではなく、立派に見える人たちの生き方や祈りの内容が実は立派ではないことを、たとえでお話しくだ去ったのだと思います。

 人を見下して成り立つこのような祈りを聞くと、さすがに自分はこんなひどいお祈りはしない、と思うかもしれません。でもこの人たちにも、素のままでは祈れない思いがあったのかもしれないと思うのです。このままの自分では神さまに喜んでいただけない、何もかも中途半端なままで恐れ多くて神さまの前になど立てない。でも「徴税人より上な私に気がつけば」神は振り向いてくださる、と思いたい心理。つまり何もできない/しない自分は駄目だという決めつけがあるため、掟の実行実績を神さまに「思い出させる」、この人の一番大きなズレは、そこにあったのかもしれないと思います。

徴税人の祈りは言い訳も説明もありません。「見当はずれな生き方の中にいる自分です、でもあなたは愛してくださいます」と直球です。神さまがこの人を義とされたのは、この人の生活が苦渋に満ちていたからではなく、神は、自分を底上げしなくても聞いてくださるという信頼が、根本にあったから、そういう祈りだったから、かもしれません。

祈ることの意味

管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.10.19

ルカによる福音書18:1-8a

 今日の福音書に登場する「不正な裁判官」のような人は、現在でも決して珍しくないでしょう。裁判官は不正なことをする人たちだという意味ではなく、自分の役割であっても、一旦相手を見下すと、あれこれ理屈をつけて相手にしない、そんなどんな職種にもいる人間の話です。この裁判官に象徴される存在が、イエスさまの時代の誰を指していたのか、様々な想像ができますが、いずれにせよ、当時の地位という意味では、最下位の一つに相当する「やもめ」が直訴することは、そもそも無理な設定です。女性は、裁判を起こす権利はなく、財産を相続することもできませんでしたから、当時にしてみれば、残念ながら当たり前の対応だったのでしょう。

 

 しかしこの裁判官は、この女性がうるさく付き纏うからという理由で、裁判をしてやろうと重い腰を上げます。この人に付けられた「不正な」という形容詞は、賄賂の要求や虚偽の判決を連発するという意味ではなく、「不正義」を意味する言葉が使われています。つまりこの人の振る舞いは、人々の間では許容範囲かもしれないけれど、神さまの目には不正として映っている、そんなことを表しているのかもしれません。

 この人は、法の範囲内では間違いを犯さず、許容範囲の裁判を行ってきたのでしょう。しかし、飢餓に苦しむ家族と、十分に食事を摂れる家族に、同じ量の食料を配布することが「公平」ではないように、社会的な地位のある人と羊飼いのように、力関係が明らかに異なる人々を、同じように処遇することが「公平」とは言えないように、神さまにとっての正義と公平は何か、という視点を持たないこの裁判官が、しぶしぶやもめの裁判を実行したことにより、この人は自分の欠落(常識の範囲内におれば後は何をしても構わないという生き方)に気づいていったのかもしれないと思います。

 

 イエスさまはお弟子たちに「気を落とさずに絶えず祈る」ように言われましたが、「たくさん立派に祈りなさい」とは言っていません。つまり祈るとは、わたしたちにとっても自分に都合の良い結末を出す目的ではなく、祈り続けた努力に見合うご褒美を期待するものでもなく、どういう状況にあっても、神さまは必ずなんとかしてくださるという信頼から離れないように生きる、そんな自分にしてください、それが真の祈りの内容かもしれません。

神を「賛美」する

管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.10.12

ルカによる福音書17:11-19

 当時「重い皮膚病」を患うとは、一生消すことのできない烙印を押され、患っていない人々にわかるように、万人に示す責任まで負わされることでした。感染を人々の間に広げることや、うっかり人が近寄るのを避けるため、街を通るときはずっと「皮膚病です!汚れています!」と、大声で叫ぶ義務がありました。疾病を負うだけでも大変なのに、人としての尊厳を削がれているのは罪の結果だと、人々が恐ろしく思うように利用されている人々でもありました。生きるとは苦しいだけ、そんな人生だったかもしれません。

 

 このように生きてきた10人が登場します。一生治らないと思っていたでしょうから、今の苦しみが終わるときが来るとは、想像すらしていなかった。そしてイエスさまによって癒やされ、人として生きることがゆるされた人々が、躍り上がって喜びに包まれる姿が目に浮かぶようです。

 

 その10人のうち一人だけが、イエス さまのところに「神を賛美しながら戻って来た」とあります。(しかもこの人は「神を知らない」と認定されているサマリア人でした)この人はまず村に入って家族や友人に病が治ったことを告げ、喜びを分かち合っていたのかもしれません。でもハッと気づき、イエスさまに何かを告げたくて戻り、「神を賛美」した。でもそれは、病気を治すとはすごい神さまだと持ち上げることではなく、もたらされた利益(=病気を治す)を保証するよう圧力を加えることではなく、癒しの見返りとして神に従属します、といった約束でもなく、この人は「正しく」神を賛美したのだと思います。それは、イエスさまがこの人に「あなたの信仰があなたを救った」と言ったことからの想像です。

 

 正しい神への賛美とは、自身もまた「神にとって、漏れなく大切なひとりの人間である」と知ること、そして受け入れることではないでしょうか。それこそが「信仰」であり、神を受け入れないと思われているこの人を救ったと言っているのではないでしょうか。厄者扱いされるのではなく、生きていることを嘆くのではなく、すでに神によって愛され大切にされているのは本当なのだと信じること。そのことこそ、神を賛美することであり、神の望みであると知ったからではないでしょうか。

「信仰」の内容

管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.10.5

ルカによる福音書17:5-10

「わたしたちの信仰を増してください」これは、使徒たちだけではなく、教会の中で良く聞くお祈りの言葉でしょう。そして「自分は信仰が足りない」などとも言いますが、信仰そのものは、量で測れるものなのか、増えたり足りなくなったりするものなのでしょうか、そもそも「信仰」の意味を、わたしたちはどのように捉えているのでしょうか。

 少し話が飛びますが、教皇グレゴリウス1(AD 540604)と いう人が『牧会規定』いう本を著しました。これは、聖職者を目指す 人に向けて書かれたものですが、一見指南書のようなタイトルなものの、グレゴリウス自身が、「人の力ではとても実現不可能な、とんでもない事」を神が聖職者の生き方に求められていると知り、聖職按手の前日に怖くなって逃げ出したことに対する、弁解の書なのだそうです。

 興味深いのは、この文書は四角四面の綺麗事を語っているのではなく、誰しもが持つ弱さへの向き合い方、また、神に対して真に信頼するとはどういうことなのか、描かれていることです。聖職者になるための、様々な勉強や実際の経験を積むことを通して、「自己実現をしたいという欲求」や「人から認められたいと望む心」という、誰しもが持つ落とし穴が、さらに広くそして深く口を開けて待ち受けている危険に、自覚を持つよう薦めます。聖職者が、人々の魂の渇きに耳を傾けるのは、最も大切な務めの一つではありますが、もし人の思いのみを聴き、神に聴くことを失するなら、何を言ったらその人にもっとも感謝されるか、人々の賞賛を得るか、という全然別の目的へと向かってしまう、という落とし穴について語ります。

 「からし種一粒の信仰があれば十分だ」とイエスさまはおっしゃいます。わたしたち全員が聖職者というわけではありませんが、自分の中にある醜さや弱さ、怖れやゆらぎを見なかったことにするのではなく、すべてを受け止めてくださる神様に、全幅の信頼を預けることが、「信仰」の中身なのではないかと思うのです。

人を人として

管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.9.28

ルカによる福音書 第16章19〜31節 

 イエスさまのたとえ話に登場するラザロは、果たして実在の人物だったかどうかわかりませんが、残飯にありつくことでなんとか命をつないでいる人々がというのは、当時けっして珍しくはなかったのでしょう。行くあてもなく、よその家の門の脇で雨風にさらされながら身を横たえ、全身に広がる皮膚病をどうすることもできないまま、ただ死を待つ。自分が生まれてきた理由、そして苦痛の中で生き続けなければならない理由を、神に問うたかもしれないこの人の名前は、ラザロ「神に助けられた話者」でした。

 一方「金持ち」は、そんな悲惨な状態のラザロの存在を認識しており、名前まで知っていましたが、ラザロの存在に心を痛めないまま、「毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」とあります。そして自分が死んでも、ラザロに対する姿勢を変えず、ラザロに使い走りをさせようとします。自分のために水を運ぶよう依頼し、それが駄目ならと身内への特別待遇を求めます。この金持ちは生きている間、感情も考えもある「人間」としてのラザロを認識できず、そして亡くなった後も何も変わらず、自分の都合のためにラザロを利用していいと思っています。

 しかしこの話は、施しを促すためのたとえ話ではないでしょう。ラザロのような人がすぐ近くにいるのに、後ろめたさを感じずに、自分の都合や欲望を最優先して生きるのは、実はかなりの無理があるのではないかと思います。この金持ちのような人は、自分の財布で欲望を満たして何が悪い、犯罪は犯していないと言いつつ、ラザロの状況は自業自得、神の罰の結果であり、自分とは無関係だと思わないと、飢えている彼らを毎日見ながら、衣装や遊びへの浪費を正当化するのは難しいでしょう。

 ひょっとしたら、もしこの金持ちが、自分の浪費癖に心を痛めながらも、ラザロを対等な人として向き合っていたなら、話の結末はちがっていたのかもしれません。アブラハムは金持ちに対して「子よ」と呼びかけています。つまりこの金持ちを切り捨てる意図はなく、彼を悲しい目で見つめつつも、何が問題だったのか、自身で悟ることを待っている呼びかけに聞こえます。難しいことかもしれませんが、神さまが大切にしている家族の一人として、すべての人々を認識し得るかどうかにかかっているのではないかと思います。

生きるのはきれいごとじゃない

管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.9.21

ルカによる福音書16:1-13

 今日の聖書は、ごまかしても正しくないことをしても、それに警鐘を鳴らすイエスさまではなく、「いいよ、そのままで」と肯定しておられるようにも読め、何だか複雑な気持ちになります。世の政治家の収賄事件も、選挙の際の公約反故も、経歴の詐称も、それでもいいよと言われているのでしょうか。借金は踏み倒しても責めないよと言われているのでしょうか。

 

 そもそも他者にお金を借りるのは、その人との関係が壊れる覚悟が必要です。大切な友人なら、そんなことは避けようと誰しもするでしょうが、これは一般論として話されているのではなく、「金に執着するファリサイ派」の人々も聞いていた(14節)という場面展開です。聞いた彼らは、不快に思い、せせら笑いますが、「自己保身目的とは言え、不正によって仲間を作るなんてダメに決まっているじゃないか。自分はそんな馬鹿なことはしない」という心中かと思います。

 

 「富」は、土地や畑の作物、家畜や商売の収益を含みます。増し加わることで生活の安定を得て、心の安定も得ます。しかし少しでも減る兆候があるとやはり誰しも穏やかではありません。蓄えがあるのに、さらに資産を増やさないと損をしていると感じてしまう。この話の聞き手の中には「神の前に正しいことをしている自分は、そんな不正とは無縁。律法を守る限り、絶対安全な保証を得ている」と信じ、そうできない人々を見下している、という致命的な背景があるのではないかと思うのです。

 

 わたしたちは、「絶対的正しさ」に生きることは不可能です。たとえつつましい貯金をしていても、誰かの借金の利子がわずかな利息になります。投資をすれば、資金を失い路頭に迷う人がいるから、利潤を受けることができます。こういったいとなみを、罪だと決めつけるのではなく、生きて行くために、家族を守るために、あまり神には誇れない側面も合わせ持ちながら一生懸命生きているわたしたちをも受け止められるのが神であり、余分が生まれたら、それは必要としている人々に届けてほしい、というのが神の望みなのではないでしょうか。その辺りが、小さなことにも忠実であること、そして表面的にはあまり差異はなかったとしても、自分の欲という主人に仕えるのか、神さまに仕えるのか、それが問われているという話なのかもしれません。

心の中の羊

管理司祭 上田亜樹子司祭
2025.9.14

ルカによる福音書15:1~10

九十九匹の羊、そしてその群れから離れる1匹。羊飼いは「1匹くらいは仕方がない」とは言わず、九十九匹を野山に放置して、失った1匹を探しに行く。やがて迷い出た羊が発見され、生存確認がなされると、皆で喜んだ。この話は、たとえ多くの羊を野獣の襲撃や気候急変の危機にさらしても、神は小さな一匹をかけがえのないものとして心を砕き探し出そうとされる。だからわたしたちも、自分がとるに足らないちっぽけな存在であると思い知らされても、身勝手な理由で群れから離れたとしても、神は決して諦めることはない。野山を越えて必ず探し出し共にいようとしてくださる、そんなメッセージとして語られることも多い。

 このたとえ話が語られた場には、律法学者やファリサイ派の人々がいたようだ。彼らは自分たちこそ、正統的な信仰を守るために不可欠な役割を果たしていると自負していたので、群れの一員として忍耐強く伝統を守り継承している自分たちは九十九匹の側であり、群れを離れた一匹のことを「厄介者」というイメージで聞いていたかもしれない。しかし信仰のために一生懸命努力するのがわるいのではなく、律法を守ることができない人々について、想像力が欠如しているところだったのではないか。つまり「医者はいらない自分」には問題がなく、医者を必要としている問題のある人々を、たとえ言葉にはしなくても、見下していた点ではないかと思う。

 理由もないのに故意に群れを離れるのは馬鹿げているが、本当のところは(絵本のように遊びに夢中になっていた子羊が皆とはぐれてしまったという話ではなく)そうしなければ自分が保てないところまで心理的精神的に追い詰められ、それ以外の道では命を護れない、そんな場合もあるのだと思う。一匹を探すために羊飼いが群れを離れて初めて、九十九匹は自分たちの無力さを思い知り、傲慢だったことを知り、生かされていることを知る。聖書によると、迷い出た一匹は元の群れに戻ったとは書かれていない。どこかで、新たな神に仕える道を見出したのかもしれない。さてあなたは、今、どのあたりで、神を望み見ておられるだろうか。

「ゆるし」という重み

管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.9.7

 日本語が第一言語ではないけれど、日本に長く住んでいるある友人が、こんなことを言いました。「日本では、皆があまりにも簡単に『ゆるせない!』と言うので、それを聞くとドキッとする。」それを聞いたわたしたちは、人々は「許す」と「赦す」をごっちゃにしているのかもしれないと話しました。音が同じなので難しいところですが、「許せない」という意味で使っている場合の方が多いかもしれません。「許す」ことは、ある意味具体的な行動を指す言葉であり、「許可する」か「妨げない」ことで、前に進むOKを出すようなイメージでしょうか。    
        

 聖書の語るゆるしは、「赦し」の方です。でもそれは「臭いものに蓋をする」勧めではなく、わたしたちの心の中での課題について語っているのだと思います。1つは、「赦してもらえない苦しさ」です。人を傷つけたり信頼を裏切ることになってしまったとき、それだけでも苦しいのに、相手がゆるさない決断をしたときはもっと苦しいものです。謝罪したくても拒絶されるかもしれない場合は「ごめんなさい」では軽すぎて、口にすることもはばかられます。2つ目は「人をゆるせない苦しさ」です。ゆるせないという状態は、心の痛みだけではなく、怒りや不安、そして悲しさもあり、心だけではなく身体も傷つけます。誤解を恐れずに言えば、奪い盗られた自らの力を、「ゆるさない」ことでなんとかして保管しようという欲もあるかもしれませんし、実際、赦したいけど赦せないこともあります。

 不正や不平等を「看過できない」という意味で「許さない」ことも大切ですが、どのように闘っていくのかは、大いに智慧を絞る必要があります。ことに権力をもつ相手だったり、皆にとって当たり前だったりする事柄は、本当に簡単ではないでしょう。しかし目指すゴールは、相手に思い知らせることではなく、復讐することでもなく、「あるべき姿の回復」であり、自身の心の解放です。答えは1つではなく、また時間もかかることですが、少なくともわたしたちは、「諦める」ようには言われていないのです。言い方を変えれば、相手と同じ土俵に立つのではなく、一段上から出来事を俯瞰し、神さまと相談しながら解放を探していく作業なのかもしれません。

 

招かれているのは誰

管理司祭 ロイス上田亜樹子
2025.8.31

ルカによる福音書14:1, 7-14

職場などで宴席を囲むような場合、繰り返される「儀式」があります。年功序列が微妙だったり、どこが「上席」なのか、何通りかの解釈が生まれてしまうような場合、人々は際限なく「まあまあまあ」「いやいやいや」と言いながら、他者を上席と思われる位置に座らせようとするような習慣です。多くの場合は、相手を思いやってそうしているわけではなく、自分が恥をかかないための防御でもあるのでしょう。

            しかしイエスさまが、「面目をほどこすため」のノウハウを伝授なさっているとは、とても思えません。世渡り上手かどうかは、根源的ないのちとは全く関係がないからです。しかも場面設定がふるっています。他の聖書(マタイ23章)では、「偽善者」「白く塗った墓」と、ふだんからイエスさまから非難されている律法学者、ファリサイ派の議員の家からの招待です。普段の言動の割には違和感のある状況、いったいどんな顔をして、どのような振る舞いをされるのだろう、と様子をうかがっていた人々がその場にいたこともあり、イエスさまは彼らに向かって、「面目をほどこす話」をされています。

            続いて、招待側の人に対して、「こうすれば報われる」という話をされます。見返りを期待できない、社会で無視され軽視されている人々を招くことが、逆転が起きる神の国では(今すぐには結果は出ないとしても)、その際に報われるのだという話です。自分が招待され、しかもその招待を受けて食事会にやってきた人が、「どういう人を招くべきなのか」と、招待者に告げるとは、普通に考えたら非常識極まりないですが、イエスさまが本当に伝えたかったことは何だったのでしょうか。

            ひとつは、神さまとともにいようとするとき、自分の中にある「見返りを期待できない」弱さや、目を背けたい暗闇を「招待しなさい」ということではないかと思うのです。わたしたちは、うまく取り繕って生きたいし、綺麗事の方がまとまるし、また自分の長所だけの方が、神さまの前に立つには相応しいように思いがちです。でも暗闇や弱さを置き去りにしている限り、自分の短所や心の闇の力は衰えることなく、かえってあなたを支配するようになる。こういう道(生き方)を選ぶより、神さまの前に暗闇を明るみに出し、自分も勇気をもって対面すると、その結果報われる。つまり神の国があなたとともにある、ということではないかと思うのです。

            そして、自身の弱さや闇を末席へと押しやるのではなく、それらに「上席」をすすめる方がよい、つまり神さまの前で、一番目立つところに置くようにおっしゃっているのではないでしょうか。ふだん見たくない心の闇を軽視せず、神さまのみ手の中でその先どうなっていくかを委ねつつ、神さまに信頼することに徹底する、ということではないかと思うのです。でしょうか。それはつまり、闇自体が「恥」なのではなく、それらを軽視し隠そうとし、これは自分の一部ではなく本当の自分はもっとちがうはずだと思い込むことこそが、神の国では面目がないことになるのではないでしょうか。弱さや闇は、わたしたちに苦痛を与えますが、その苦痛は、神さまに招かれることを待っている苦痛なのではないでしょうか。

「狭い戸口」

管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.8.24

ルカによる福音書13:22-30

 新聞やテレビにもよく登場する「狭き門」ですが、いつのまにか聖書から離れて一人歩きをし、「なかなか入学できない偏差値の高い学校」などのイメージから、人を押し退けてでも前に進む情熱や、場合によっては腕力を持った人だけが突破できる課題、といった意味で使われます。そしてどこかで「門に入れなかったその他大勢ではない」といった視線すら含まれているように感じます。「狭い門」を通過できた人は、いかなる門をも突破でき、人生の選択肢が広がる「選べる側に立つ」という誤解さえ生まれます。でも聖書の中の「狭い戸口」は、他の人と比べて云々という概念はないのです。その「戸口」は、神さまが「わたし」のためにつくってくださった特別の戸口なので、他者と競い合って獲得する必要はなく、じっと静かに通るべき人が発見するまで待っている忍耐強い戸口。「わたし」のために神さまが作ってくださった戸口なので、本人以外は「狭くて」通ることが出来ない、そういうことなのではないかと思うのです。

 多くの人は、誰でも入れて行き来しやすい、安全で気楽そうに見える戸口に殺到します。みんなが行くからきっと良い門なのだ、とりあえずここから入っておこうと思うのでしょう。しかし、広々とした門を選ぶ人々の心の根底には、自らが決断した結果ではなく、評判がいいから、みんなが行くから、常識的に考えて間違いないから、という気持ちがあるのかもしれません。

 小さなことを人任せにし、自分で判断しない癖がつくと、やがて重要な決断をしなければならない時も、つい周りを見回して「みんなはどうしているのだろう」が先立ち、(もちろん周囲の圧力もあって)気がつくと「広い戸口」の方へと流されている、というのが現実なのかもしれません。

  神さまが創った「あなた」のための戸口を探す旅は、容易ではないかもしれません。投げ出したくなる時もあるでしょう。「入れなかった」という体験談を聞くと不安にもなります。でも、わたしたちがこの世に命を受けている以上、必ず「わたしの戸口」が存在し、見つけられるのを待っている。それは「わたし」というかけがえのない存在を認知する人生の入り口でもあるでしょう。「わたしの戸口」を見つけ、そして自ら通って入る決断をすることができた時、もっとも自由で喜びと感謝に満たされた人生へと招かれるにちがいないのです。 

神の愛が燃え広がる

管理司祭 ロイス上田亜樹子  
2025.8.17

ルカによる福音書12:49-56           

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるため」と言われると、破壊や暴力を肯定し、人々を捻じ伏せ従わせる「神」のイメージが浮かび、イエスさまよ、結局あなたも同じか、とガッカリするかもしれません。わたしたちの身近にある「火」は、生活の便利に貢献する文明の利器であると同時に、戦乱や犠牲を生む圧倒的な破壊のイメージもあるからです。しかしこの言葉に続いてイエスさまは、ご自分の「洗礼」のことを語ります。これは、物理的な洗礼の話をしているのではなく、人として生まれて短い生涯を過ごし、最後は裏切られ捨てられ殺害される十字架の出来事のことを言っておられるのではないかと思います。(人々の間に)火を投じ、それが燃えて(広がる)ことは、時には依存で成り立っていた人間関係や、頼りにならない(例えば偶像)ものに縋りつく生き方にひび割れが生じます。すでに形骸化した慣習や、神ではなく支配者が作り出した掟が無力化することを恐れ、これまでの状況を維持したい支配者階級は、なんとかして「愛の神」のことが伝わらないよう抵抗します。イエスさまからの呼びかけに、最初は破壊と喪失への不安を感じたとしても、むしろそれは、どんな人をも見捨てない神さまの愛情なのであり、それが「火が燃えていたら」と願うイエスさまの発言の意図ではないかと思うのです。      

 

それは、体裁を整えることを目的とする、なまぬるい「安心」とはほど遠いもので、神さまの本質について語っているのでしょう。せっかく今、安定してうまくやっているのだから、それをあれこれ言われたくないという気持ちも、正直なところ、わたしたちの中にはあるのだと思います。苦しい目にはなるべく遭いたくないし、損することを避けるため、家族の中で孤立したくない、世間から後ろ指をさされたくない。でもそれを最優先させて生きていると、どんどんイエスさまの十字架から離れていく、神さまの愛からも離れていく、そんなことへの警告でもあるのでしょう。         

 

何かを失うことには誰でも恐怖を感じます。変化もまたわたしたちを不安にさせます。でも、その怖さに直面しないで済むために、パリサイ派の人々や律法学者たちは人々をコントロールし、「愛」とはかけ離れた神を提示し、人々を管理しようとした。不安や恐怖に縛られるのではなく、そこから自由になりなさい、とわたしたちを招いてくださるイエスさまです。

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです

管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.8.10

ルカによる福音書12:32-40

 今日の使徒書は、アベルやアブラハムを例にして、「望んでいる事柄」と「見えない事実」とを、正しく識別する必要性について語っています。自分が望む事柄は、それは他でもない神の望みから来ており、しかし容易には受け入れ難い=「見えない」事実でもあります。これは、目を瞑り思考停止し神に従っていればよい、という考え方とは対極をなすテーマで、むしろ神の望みを正しく識別しようとすることこそが信仰であると言っています。それはつまり、神の「望み」とわたしたちが正しく出会ったとき、わたしたちはさらに自由になり喜びと感謝に満たされる、ということを示しているのではないでしょうか。神の望みを主体的に知ろうと決断するまで、わたしたちを忍耐強く待つ神という姿も伝わってきます。

  兄に殺害されたアベル(創世記)は、もはやその肉体が存在していないにもかかわらず、神に対する信頼を実直にあらわしてきた彼の生き方が、人々の心に語りかけ、今もなお影響を与え続けている、と聖書は語ります。またアブラハム(出エジプト記)は一家の長として、カルデヤのウルで安定した生活を送っていましたが、行き先すら示さない神の「行きなさい」との言葉に信頼しました。外国人としての不安定な生活や、当時の権力者たちによって命さえ危うい状況も、おそらく想定していたでしょうが、彼はそれを神の望みと識別し、すべてを残して家族と共に出立します。

  彼らの物語は数千年前の「ご苦労された人々」という昔話ではなく、わたしたちにかかわっています。神が望んでいる事柄と自分のエゴとをどうやって識別するのか、そしてまだなんともかたちのない神からの招きを、どうやって神の計画と認識するのか、それは実は単純なようでいて、非常に識別の難しい問いです。どうしても最初に「損か得か」と思いがちで、また損得ではなくても「どうしたら、皆に受け入れてもらいやすいか」と考えてしまう。しかし、誰にも理解されなくても、神さまへの信頼=信仰を、心の中心に据えるという魂の決断があるなら、死んでもなお人々に影響を与え続けるという、なんとも壮大な話です。そういう意味でもわたしたちは、変化を恐れるのではなく、識別は誰かがやってくれると思う誘惑を、恐れるべきではないでしょうか。

「幸せになる」

管理司祭 ロイス上田亜樹子
2025.8.3

ルカによる福音書12:13-21

人は誰でも物質的な充足だけでは「幸せ」にはなれないようです。でも、物質以外となると、「心豊か」であるとか、「ゆとり」などの言葉が浮かぶかもしれませんが、一体どうしたら、心や魂を充足させることができるのかは悩むところです。時間が出来たら楽しく没頭できると思っていた趣味も、家の片付けも、時間ができた途端にすっかりやる気が失せたという経験は、どなたにもあるかもしれません。ことに目的が「自分のため」に終始してしまうようなとき、なんであんなに楽しみにしていたのか、わけがわからなくなったりします。

 

 ある社会学者が、被験者に「どのように使っても良い」と言って、1000円相当を渡し、一定時間後に再び集合。そしてドーパミン値を測る、という実験をしたそうです。ある人は前から欲しかった本を買い、ある人は大好きなお菓子を買って家族で分けて食べ、ニコニコ顔で戻ってきました。その人々の値もそれなりに立派だったのですが、お腹を空かせたホームレスの男性に食べ物を買って渡した人、親とはぐれて泣いている子どもに寄り添った人など、「何かを必要している他人のために1000円を使い切った人」のドーパミン値が一番高かったそうです。ドーパミンの分泌=「幸せになる」とは言えないかもしれませんが、神さまは人間をそういうふうに創って下さったのかもしれないと思いました。自分の欲を満たすことより、自分の家族や親しい人々を満足させるより、むしろ見返りを受けることのない「他人」の必要を満たした時、わたしたちは根源的な「幸せ」を感じ、そこに真価を見出すのではないでしょうか。そして、それこそが「神の前に豊かになる」ことなのではないでしょうか。

 

 これは、気前の良い人になろうという薦めではなく、もっと空気を読みなさいというお招きでもなく、「私が幸せになる」ことへの真っ直ぐな回答であると思うのです。もっと幸せを感じたい時は、どんな人が周りに居てどのような必要があるのか、見回してみましょうか。

「祈り」の本質

管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.7.27

ルカによる福音書11:1-13

 「求めよ、さらば与えられん」文語の聖書を読んだことのある方には、こちらの言い回しの方がピッタリくるかもしれません。でも、ここでイエスさまは、「祈り求めれば何でも無条件に叶えてくれる」神さまを信じなさい、という話をしているのではなく、「祈る」ことについての本質を伝えておられるのではないかと思うのです。

少し話は逸れますが、相手が赦してくれるという見込みが全くない時、「ごめんなさい」という言葉はなかなか出て来ないものです。また、自分の希望が全く受け入れられそうもない相手に対して、「希望しているのはこういうことだ」と腹を割って伝えるのは躊躇してしまうものではないでしょうか。つまり、何かを言葉にして相手に伝えようとする時は、すでにある程度、自分の希望がかなう見込みがあると信じて、思い切って言葉を絞り出している、とも言えるでしょう。

でももし「祈る」ことについても同じようにとらえていたら、神さまを自分の希望を叶えるマスコットのように考えている可能性があります。変えていただくようなことは特にないという前提で、「わたしたちの罪(的外れ)をお赦しください」と唱え、飢えるはずはないと思いながら「わたしたちの糧を今日もお与えください」と祈るなら、それは祈りというよりは、受けている恵みを、むしろ「当たり前だ」と思っていることを暴露している証拠かもしれないのです。

神さまはわたしたちが祈る前に、常に最善の道を備えてくださっていますが、わたしたちは、神さまの考える「最善」が必ずしも見えているとは限らない。例えば神さまにあれこれと要求し、結果的に思惑通りに事が進まず「祈りが聞かれなかった」などと呟く時、自分の「最善」を絶対化している危険があると思うのです。わたしたちの願いは、常に正しいとは限りません。正しくないかもしれませんが、門を叩き、求め、探し続けることで、自分を絶対化しない祈りへと導かれていくのではないでしょうか。神が聞くなら祈ろう、ではなく、「わたし」という存在に、そのまま耳を傾けてくださる神と対話すること、とてもシンプルですが、だから難しい。それが祈りではないでしょうか。

マルタとマリアの「良い方」

管理司祭 ロイス上田亜樹子 
2025.7.20


ルカによる福音書 第10章38~42節

   マルタとマリア。二人の生き方を、しばしば比較されながら語られる物語です。当時の女性たちに求められていた「甲斐甲斐しく食事や快適さを提供する家事」に生きるマルタと、非生産的な態度をとるマリアとの対決!のように読んできたのかもしれません。

 マルタとマリアは姉妹で、イエスさまの友人です。この姉妹にはラザロという兄弟もいて、彼らの住む村に立ち寄る時は、イエスさま一行を自宅に招き、おもてなしをしていた様子でした。マルタはしっかり者で家事を切り盛りし、家族や親戚からも信頼されているお姉さん。この日も、イエスさまとお弟子さんたちが村に来るというので張り切って準備をしています。どんなふうにおもてなししようかとワクワクしていたかもしれません。一方、妹(聖書にはどちらが姉か妹かは書いていません)のマリアは、イエスさまが到着されると、お弟子たちと一緒に座り込み、食事の手伝いもせずに、平然と話を聞いている様子。マルタは「私だけが忙しいのは納得できない、手伝うよう言ってください」と、当時の常識をイエスさまに押し付けます。「おお、これは悪かった。マリアは女性としての役割を忘れていたね」という応答を、マルタは期待していたのかもしれませんが、イエスさまの返事は「マリアは良い方を選んだ、それを取り上げてはならない」でした。

 時にはこのようなマリアの行動は命懸けだったかもしれません。でもイエスさまはあっさりとその境界線を越えました。社会の風習よりも、マリアが自分で選択したことを尊重すると、イエスさまはマルタに告げます。

 わたしたちも生きている以上、社会の常識や掟に従わざるを得ないことは多いでしょう。時には常識の壁が立ちはだかり、行動や言動を制限されることもあり、またその壁を越えようとすると、越えさせまいとする大きな圧力に、押し潰されそうにもなるでしょう。でもマリアは、他の人と比較した上での「良い方」を選んだのではなく、マリアにとって「良い」と信じる道を選んだ。そのことをイエスさまは「良い」と言っておられるのではないでしょうか。わたしたちそれぞれにとって何が「良い」道なのか、見えない時もありますが、人の思いではなく、欲に駆られてでもなく、神さまと相談しながら「私の信じる良い」を選びたいものです。

日本聖公会中部教区神学生からのメッセージ

神学生 アンデレ 川島 創士
2025.7.13


早いもので本日の主日が前期の実習としては最後の主日になりました。あっという間の実習でした。もっともっと皆さんとお話しすることがあるのに残念ですが、とりあえず本日がひとまずの区切りになります。今日は今更ですが、自己紹介をしたいと思います。どんな思いで神学校に行くことになったのか、これまでの自分の歩みを簡単にお話ししてみたいと思います。

 私は長野県の岡谷市という諏訪湖のほとりの小さな田舎町で育ちました。高校生までは週5日間の水泳に明け暮れ、将来の夢を競泳の競技者かトレーナーやコーチに定め、専門学校へ入学するためにいち早く専門科目を先取りして自主勉強に必死でした。毎日の忙しい生活の中にも、ヴァイオリンという楽器に出会うことで音楽の癒しがある恵まれた生活であったと思います。

 そんな私にとって、人生の転機となり信仰の原体験とも言える出来事になったのは、高校二年生の時の祖父の死の出来事でした。献花の際に弾くヴァイオリンの練習のために何度も教会に通い、その度に信仰者として歩んだ祖父の足跡を証しのように聞きました。しかし、やはり家族との別れは心身ともに疲労困憊をもたらし、しばらく微熱が止まらなかったように思います。その時、私たち家族に救いの言葉をかけてくださり、一緒に涙を流しずっと傍にいたくれたのが、信徒の皆様でした。その時私は、家族のように祖父の死を悼む交わりが教会にはあり、その交わりに私自身が生かされている不思議をみました。どうしようもない辛さや悲しみに、向こう側から近くに来て、「大丈夫」と傍にいてくれた教会の皆さまの背後には主イエスがいてくれたのだと思います。

 ここで本日の福音書に目を留めたいと思います。エルサレムへの旅の段落に置かれた、ルカ福音書だけが伝える話です。この旅は十字架を経て天に向かう旅であると同時に、神の国を告げる旅でした。イエスがいつも見つめていたのは、神の望み・神のこころでした。「律法の字句をいかに正しく解釈するか」というのではなく「そこに表されている神のこころは何か」ということをイエスは問いかけます。「わたしの隣人とはだれですか」という問いに、イエスは「だれが隣人になったと思うか」と問い返されます。神が求めていること、神の望みが、「隣人の範囲を決めて、隣人愛の掟を守る」ことではなく、「目の前の苦しむ人に近づくことによって、隣人になっていく」ことでした。たとえ話の内容については、それほど説明はいらないでしょう。祭司とレビ人は、両方とも神殿に仕えている人であり、真っ先に律法を実行するはずの人でした。彼らは道端に倒れている人を「見ると、道の向こう側を通って行った」とあります。彼らは神殿での務めのために、死体に触れて汚れることを避けようとしたのでしょうか。一方で、三番目に登場したサマリア人は「見て憐れに思い、近寄って」手厚く介抱しました。

 よいサマリア人の例えは、「私の隣人とは誰か」という問いを巡る律法学者と主イエスのやりとりを軸に、必ずしも近くにいる人だけが「隣人」なのではないということ、そして、愛について言葉を無意味に費やすのではなく、まず駆け寄る、近づくことが大切だと言われます。

 「行ってあなたも同じようにしなさい」。とても印象的な言葉です。心身ともに、あるいは物理的な距離が近い隣人さえ愛せない私たちですが、その私たちに向こう側から近づいて抱きしめ、あなたのままで良いと言ってくださる主イエスがいる。葬儀の経験から以上のようなことを抱きしめ、感謝のうちに聖職への志願を自然のうちに決断したように思います。皆様の出会えたこと心から感謝申し上げます。   

礼拝は誰のために その2

管理司祭 ロイス上田亜樹子
2025.7.6


マタイによる福音書5:6-9

今日は「ウェルカムサンデー」の第2回目、「心の平和」をテーマに礼拝をお捧げします。「平和」という単語を口にするなら、戦争や戦乱のない世界を求めて祈り、行動を起こすべき、と思われるかもしれません。「平和」が、もし個々人の心の平穏に留まることに終始してしまうなら、それは問題ですが、その一方、ご自分の心を「平和」に治めることのできない人が、政治的な「平和」に乗り出すことは、かえって「平和」を遠ざけてしまう危険があると思うのです。世界の平和を求めつつ、まずはご自身の中に平和を求める心があるのか、神さまが与えてくださる平安と共に生きようとしているか、むしろその方が先ではないかと思うのです。

 「キリスト教用語」を振り回さずに、伝えたい内容をどのように伝えるか、一生懸命知恵を絞りますが、0歳からのこどもも一緒の礼拝では、なかなか難しいかもしれません。でも心の平和は理屈ではないし、一緒に「体験する」ということの方が、しっくりくるかもしれません。そんなことも含めて、みんなで試行錯誤すること、そしてご自身の魂にそっと手を添えて対話するという経験の積み重ねが、平和へとつながると思うのです。これは、長い信仰生活を体験する人も、今日初めて教会に来た人も、イエスさまの生き方を目指して走るスタートラインは同じです。

 礼拝のお作法を知り、礼拝に慣れていること、またスラスラとお祈りの言葉を唱えられることが、「本当に祈っている」ことでもないでしょう。カタチを踏襲するのではなく、大切なのはその中身です。なんとかして「あなたが大切」であることを伝えようとされている、神さまの働きに参与したいのです。それはたとえ一期一会であってもかまいません。「無条件に愛され」「尊重される世界観」に触れていただくこと。そして、あなたが幸せに生きることを、何より望んでおられる神さまの切実な願いに触れることが、今日の礼拝の目的です。自分のことだけではなく、今、あなたの心の中で覚えている人々、ひっそりと心配している人々のことも含めて、ご一緒にお祈りいたしましょう。 

イエスさまの味方とは

管理司祭 ロイス上田亜樹子
2025.6.29

ルカによる福音書9:51-62

   たくさんの人と一緒に何かに取り組むとき、相反する意見や立場、感じ方のちがいがあって、それを擦り合わせていくのが楽しいと感じることがあります。その一方で、目的や内容をより良いものにするより、誰と一緒にやるか、誰の味方をするか、そちらを優先する場合があるかもしれません。ケースバイケース、どちらの方法も必要なのだと思いますが、今日の福音書でのお弟子たちの言動は、どちらかというと、後者に偏っている印象を持つのは私だけでしょうか。イエスさまの言っておられる中味を理解しよう、真髄を汲み取ろう、ということではなく、「自分たちはイエスさまの味方だ」という思いに留まることで、むしろ本題から離れていく危うさを感じます。

 ご自身の身に起きる出来事にことについて、また福音の中味について、イエスさまは一生懸命語ってきましたが、お弟子たちは理解するより、自分たちが目指していることの方が大事です。それに合っているなら聞き、合わないなら聞き流します。意味が理解できなくてもイエスさまについて行こうとするお弟子たちは、それはそれで立派ですが、イエスさまを理解しようとするより、自分たちは「イエスさまの側の人間」なので、そこに加わる意思のない人間は排除してもかまわない、と思っていることが暴露されるような言動をしてしまいます。

 ここに登場する「サマリア人」は、遠い先祖は同じ民族でしたが、異教の地に住み土着の神を信じるようになったグループです。ユダヤ人は彼らを見下していたので、付き合いを絶つのがお約束でした。そんな壁を乗り越えてサマリア人の村に寄ったのに、自分たちを歓迎しなかったからには天罰を受けて当然、と弟子たちは憤ります。また、「どこへでも従います」とわざわざ言いに来る人もいますが、自分自身の生き方を変えない範囲で付き合いたい、何か有利なことがあるなら取り入れたい、と言っているようにも聞こえます。

こういう態度は、わたしたちにとっても無関係ではないでしょう。礼拝やイエスさまを知っている、だからそうではない人とは違う、という思いがあるなら、また、自分の生き方にとって都合のいいことを「採用」してイエスさまに従っていると思い込むなら、それは本当の意味で、「イエスさまの味方」なのかどうか怪しいものです。本物のイエスさまの味方になるには、簡単ではないけれど、自分の弱さや不完全さから逃げないで、徹底してみ言葉に生きることなのでしょう。

イエスさまを生きる

管理司祭 ロイス上田亜樹子
2025.6.22


ルカによる福音書9:18-24

 お弟子さんたちと一緒に過ごした3年間という限られた期間に、イエスさまにとって様々な苦悩があったことは想像できます。一番伝えたい「愛の神」を語っても「そんな抽象的な話ではなく、さっさと支配者を失脚させてほしい」「民衆の賛同を得るには、もっとわかりやすい奇跡を」「この社会を率いるカリスマになってほしい」など、何もわかっちゃいない弟子たちです。特に今日の福音書は、「五千人の養い」の直後に位置しますから、パンと魚を分かち合った奇跡を体験して、お門違いの方角に走り出しそうな弟子たちに、立ち止まってもらいたかったのかもしれません。イエスさまが地上に来られた目的、それは権力や名声、地位ではないと頭で はわかっていても、心のどこかでは、その存在が万人に理解され、やがて一緒に行動する自分たちもまた、社会の構造や体制をひっくり返すような大改革にたずさわる者として歴史に名を残す。そうなったらいいかもしれない、と考えているような、そしてこの最初の予告を聞いても、何のことやらといったお弟子たちの反応が目に浮かぶようです。

 では、聖書からそんなお弟子たちを読み取っているわたしたちはどうでしょうか。粛々とイエスさまが命がけで伝えられた「愛の神」とともに生きるより、イエスさまのご生涯に倣うより、そして不完全ながらも地上に遣わされた尊い時間を感謝して抱き止めるより、別のことを望み見てはいないでしょうか。教会によりたくさんの人が集まり「経営」が安定すること、神さまに信頼するより自分の安心を優先すること、神さまの思いではなく、人としての欲を満たそうとすること。それは一方で、神さまがわたしたちを造られたそのままの姿ではなく、限界と弱さと不完全さを切り捨て、いわば歪んだ姿を描き、その中に自分自身を無理矢理嵌め込んで「安泰だ」と言っている姿のような不自由さを感じるのです。

 不都合なことは見たくない聞きたくないというお弟子たちの姿は、裏を返せば、わたしたちの姿でもあるのでしょう。受け入れるのがなかなか辛くて、つい後回しにしそうですが、人としての限界を認め、弱点だらけの自分を否定せず、しかし神さまの愛を心の真ん中に置いて、粛々とそれを伝え続ける人生、それが「自分の十字架を背負う」ことではないでしょうか。

わたしたちのために

管理司祭 ロイス上田亜樹子
2025.6.15

ヨハネによる福音書16:5-15 
                   

 先週のトピックスであった「聖霊なる神」の次は「三位一体」。難題が続きますが、神さまは私たちを悩ませるために、わざわざむずかしい話をしているわけではないでしょう。

 聞いたことがあるかもしれませんが、「弁護者」という言葉は、「援助する人」「人のために語る者」「助け手」などの意味もあります。つまり目に見えず、音波としては耳から聞こえず、手で触ることもできないが、一緒に居てくださり、わたしたちを支えてくださり、そして必要な言葉を与えてくださる存在として、神さまが送ってくださったのが聖霊なる神であり、それは父なる神、子なる神と別人格ではないという話です。しかし、存在証明ができず、客観的な証拠も挙げにくく、手応えも感じにくい存在を、なぜ改めて「造られた」のか、疑問は残ります。   
        

 しかしイエスさまは、重要なこともおっしゃっています。ご自分が「去っていくこと」こそが、お弟子たち(そしておそらく全ての人々)のためになる。そして、ご自分が去らないと、聖霊なる神はわたしたちと共にいることができない、と。これは交換条件ではなく、わたしたち人間の性質を、神さまが見抜いておられるからこうなったのではないか。地上に降り立ち、人々と生活を共にされたイエスさまが、もし肉体を持ったまま、数千年も生きながらえて人々の間にいたら、イエスさまを自分だけの味方にしたい人や、神を「所有」したい人々の欲が今よりもっとむき出しになり、争奪戦が始まるかもしれない。また、イエスさまの言質や行動を都合よく解釈する権威や、上手く利用しようとする人々が世の中で幅を利かせ「キリスト教」は愛や慈しみを伝える共同体ではなく、イエスさまの名を利用した支配と依存の組織ということになってしまうかもしれない。そんなわたしたちの「弱さ」を知っておられる神が、最悪の事態を避けるために聖霊なる神を送ってくださったのではないか。もし「神さまなのだから、もっとうまい方法があったはず」だから信じないと言うなら、その声がわたしたちの「都合」から生まれていないことを祈るばかりです。

「まとはずれ」からの解放

管理司祭 ロイス上田亜樹子
2025.6.8

ヨハネによる福音書20:19-23

私事で恐縮ですが、今年3月から「霊的同伴」について学び始めました。その訓練の一環として、毎月の霊的同伴を受けると同時に、2名以上の方々の霊的な旅路に同伴することが義務付けられています。つまり実習です。そして、その実習体験の中から1つを選び、小グループでプレゼンをして、皆さんから疑問や問題点について指摘いただくのですが、今のところ「これだ!」というような発見には出会えていません。まさに暗中模索です。ZOOMによるディスカッションの難しさに加え、言葉の壁もあります。また、文化が違う人々に、なかなか伝わらないもどかしさもあり、一体どこに聖霊なる神が働いているのか見えていない初心者です。

 

あるときのプレゼンに、Aさんのケースを選びました。これは霊的同伴というより「牧会カウンセリング」になってしまったなと感じたセッションだったからです。そして、グループのリアクションとしては「この人の抱えている課題ばかりにフォーカスし過ぎる、神はどこにいるのか」という当たり前なものでした。でも、どうしたら牧会カウンセリングではなく、「霊的同伴」へと導けるのか、それがうまくできなかったからプレゼンしたのに、正論だけ言われても、という気分でした。Aさんと共に働かれている神がおられることを信じて、Aさんのストーリーを真摯に聞けば、神さまは何をなさろうとしているのか見えてくるはず、というのが私のスタンスでしたが、神さまに聞いているつもりでも、やはりどこかで、「達成目標」や「ゴール」を勝手に設定し、Aさんの課題を明確化したつもりになって、僭越にも「今回はこれに気づけるようにしてあげよう」といった私の限界や弱さが露呈した出来事だったのです。

 

三位一体の神のうちのひとつである「聖霊なる神」の存在を受け入れよう、その働きを理解しようとする過程の中で、しばしば自分が持つ限界や弱さに直面することがあります。それは、神の存在や働きをわかったつもりになりたい自分との対決です。長い間苦心して取り組んできたことが実を結べば、自分の能力と努力の結実だと思い込み、一方、自身の価値観の中でもがき、何をやってもうまくいかないと「神さま、どういうおつもりですか」と嘆いてしまう。それはあたかも、自分が神を所有しているかのような心の動きです。天地を創られた父なる神の存在は必要だろう、2千年前に赤ん坊として生まれた子なる神も必要だったのはわかる。では、何だかピンと来ない聖霊なる神の必要性はなんなのだろうか、と。

 

イエスさまは、弟子たちに息を吹きかけ「聖霊を受けなさい」と言われました。でも、それまで聖霊が離れていたわけではなく、共におられる聖霊なる神の存在を認識し、その働きに支えられて生きるよう、促して下さったということではないかと思うのです。

 

「聖霊を受けなさい」と呼びかけたイエスさまは、続けて罪を赦す「権威」の話をします。でもそれは、罪を赦す魔法の力を弟子たちに与えるという意味ではなく(「罪」という言葉には「まとはずれ」の意味があるので)、まとはずれな生き方をしているたくさんの人々の解放のため、手を貸してください、というお招きの言葉なのではないかと思うのです。つい目の前の利潤や好条件に飛びつき、困った時ほど全部自分でなんとかしようと力み、どんどん自分を不幸にしてしまう「まとはずれ」から自由になれるよう、人々を支えなさいという命令であり、やがてそのお手伝いをするために弟子たちは派遣されていったのでしょう。つまり、罪からの解放は、選ばれた人だけが受ける特権ではなく、解放されて生きる生涯は、すべての人に開かれている、という宣言なのでしょう。

 

人々の間に愛が広がるためなら、なんでもしようとしてくださる神さまの意思を受け止め、思い込みと偏見を拭いつつ、聖霊の働きを邪魔しないよう生きていきたいと思います。

昇天日の意味

管理司祭 ロイス上田亜樹子
2025.6.1

 ヨハネによる福音書17:20-26

 先週の木曜日は「昇天日」。それは、復活ののちにしばらくの間、お弟子たちと過ごしたイエスさまが天に帰られたことを記念する日でした。それに伴い、復活のろうそくも片付けますが、置いてあった場所が、妙に「空いている」ことを強く感じさせられます。考えてみればわたしたちも、家族や友人と一緒に過ごしたあと、その人が去ってしまうと、妙な空虚感に囚われるときがあります。これは想定内のこともあるし、あるいは「こんなはずではなかった」と思うくらい、心が折れている時もあるでしょう。

 

  イエスさまを十字架上で失い、その死を避けることができず、声を挙げることすらできなかったお弟子たちが、イエスさまが三日後に現れて、それらの苦しみから解放して下さいました。しかしそのままずっと、イエスさまにすがりついて(というか、イエスさまを縛り付けて)過ごし、やがて依存と支配の中で上下関係が作られ、自立できなくなることは、復活の目的ではなかったはずです。神さまが人々を顧みて、イエスさまという人間のかたちをとった方を送り、その口を通して神の意志を語り、人間としての生き方そのものを伝えられた。ご復活は、その生涯が「失敗」でもなければ、伝えられた内容が「虚偽」でもなかった。そのことを伝えるために、わざわざもう一度地上に降りられた、そういうことなのではないかと思います。

 

  イエスさまは丁寧にも、やがてやってくる別離の準備のため、常にわたしたちと一緒にいられるよう、聖霊なる神を送ってくださる約束をしています。それは、肉体を持たない神であり、わかりにくいし、ぴんと来ないと感じるかもしれませんが、それはわたしたちの持つ限界や不完全さと関係しているのかもしれないと思います。

 

  今日の使徒書に「占いをして、主人に多くの利益を得させる」女性が登場しますが、この存在も、人々の間に依存と支配の関係を生み出しています。そして、都合の良いことが目の前にぶら下がっていると、ついそれに飛びついてしまうわたしたちの限界をよく知り、受け止めてくださる神は、昇天日まで用意して下さって、依存でも支配でもない世界に生きよ、とわたしたちに呼びかけておられます。

神が望んでおられること

管理司祭 ロイス上田亜樹子
2025.5.25

ヨハネによる福音書14:23-29


今日は、使徒書(使徒言行録)の話に触れたいと思います。リストラは、イエスさまが活動されたガリラヤやエルサレムからは遠く離れた内陸の町(現在はトルコ領)です。十字架前はイエスさまの言うことをあまり理解できなかった弟子たちが、復活、昇天、聖霊降臨の出来事を通じて、主の平和の意味を知り、イエスさまの愛の深さが心に届くと、恐れを捨てて遠い国々まで福音を伝え始めました。

 

そしてこのリストラにやってくると、生まれてから一度も歩いたことのない人に会います。「一度も歩いたことのない人生」とはどういうものなのか、想像しかできませんが、さまざまな「不便」と共に生涯を送ってきたことでしょう。また行動上の制限だけではなく、身体や精神に不調をきたすのは、神の恵みから漏れている証拠、見捨てられた男と理解されていた当時の社会では、その人の社会的居場所があったかどうかも疑問です。しかしこの人は、イエスさまの事を知り、話を聞くためにやってきて、パウロ(この人はイエスさまと直接行動を共にしたわけではありませんが)と出会い、尊厳ある人間としてじっと見つられると、歩けなかった人が立ち上がります。それは、この人が人間としての尊厳を取り戻し、社会がどう決めつけようとも真っ直ぐ顔を挙げ、神さまが自分を愛してくださっていることを心の底から信じ、神さまに信頼する人生へと踏み出した、そんな心の内部の立ち上がりのようにも見えます。

 

 ところがそれを見ていたリストラの町の人々はこの出来事を見て、弟子たちが信奉する存在を、自分たちの味方にしようと考えます。つまり、自身自身の何も変えないが、でもその力にはあずかりたいという心境です。素朴な信心のようにも聞こえますが、その根底には、都合よく操作できる神という、勘違いの構図が透けて見えます。わたしたちの知っている神さまは、おそなえもので態度が変わる神さまではありません。わたしたちが喜びで満たされることだけを望んでおられ、真の平和を教える神です。

律法ではなく愛を

管理司祭 ロイス上田亜樹子司祭
25.5.18

ヨハネによる福音書13:31-35

旧約聖書の人々は「律法」と呼ばれる掟を大切に守ってきました。その出発点は人々を縛るためのものではなく、人生を進む上での道しるべであり、神さまが人類に与えて下さった約束であり、神とともに生きる方法を明確に述べた指標のようなものでした。人々はその掟を守り、喜びに包まれ幸福な生涯を送るため、神さまのみ旨に叶うこととして尊重してきました。それは、正しいこと正しくないことが明記されていただけではなく、崇高な助け合いの精神があり、神と人への誠実さでもありました。

 

ところが時代が進み、世代交代すると、掟の真髄や精神ではなく「かたち」に固執する人々が実権を握るようになっていきます。掟の総論だけでは伝統は守れないと、不必要なまでに掟の細部まで規定し、結果的に「掟を守れる人」は神に愛れる人、「掟を守れない人」は駄目な人、といった「区別」が始まります。さらにこの区別は、指導者たちにとって都合の良いシステムとなり、人々を支配するようになります。

 

そんな時代にイエスさまが現れ、すべての掟に優先されるのは、「互いに愛し合う」ことだと教えます。この「愛(アガぺ)」は「何かをすれば愛したことになる」といったわかりやすいものではありませんでした。人によく思われようとみんなから見える場所に立って長々と祈る宗教者の姿や、相手に取り入り感謝されるために親切なふりをすることなども、聖書に登場しますが、これらは「愛」ではないので、相手から感謝されないとがっかりしてしまいます。

 

イエスさまが教えてくださった愛は、無条件で見返りを求めず、人を「お大切」するためのものです。「自分を殺して相手に尽くす」のも違います。自分をお大切にするを知らなければ、決して他者をお大切にすることはできないでしょう。ひたすらイエスさまの愛に倣うことなのでしょう。

イエスさまの声を聞こう

管理司祭 ロイス上田亜樹子
2025.5.11

ヨハネによる福音書10:22-30

教会では、イエスさまを羊飼いに、イエスさまについていくわたしたちを羊にたとえる習慣があります。それは聖書の中で「わたしは良い羊飼い」と、イエス自身が言っておられることもありますが、当時の人々にとって特別感のない、身近でわかりやすい喩えだった、ということなのでしょう。都市に住むわたしたちには、電車や地下鉄を利用するのが当たり前のように、その時代は羊や山羊は人間の生活の一部でした。

 

10年以上前ですが、山梨県の長坂聖マリア教会を訪ねたことがあります。門を入った途端、教会で飼っている大きな山羊が3頭、脱兎の如くこちらに向かって来ました。思わず身構えましたが、その山羊たちはわたしを歓迎したのではなく、侵入者をチェックしに来たのです。威圧的な態度で私を睨み、「何か用か?」と迫る山羊の目力。聞くところによると、山羊はテリトリー意識がとても強く、自分は飼われているという意識もないそうです。一方、羊ときたら正反対で、心身共に非常に脆弱で簡単にパニックに陥る。まわりに知らない個体がいるかどうか、これから何処へ移動するかなど、あまり心配しない。それよりも自分の身を外敵から守ってもらい、メンタルの安定のため「群れの一部として過ごす」習性らしいのです。山羊も羊も個体差はあるでしょうが、羊の特徴を聞けば聞くほど、なんだか人間の話をしているような気持ちになってきます。

 

都合のわるいことを考えるよりも目の前の草を喰み「ああ、今日も良い一日だった」という羊と、わたしたちの少しの違いは、「イエスさまの声を聞き分ける」ことくらいかもしれません。それは、何も考えず従順であれということではなく、イエスさまがわたしたちに伝えようとされている良い知らせを聞き理解し、そして自らの責任において人生を選んでいくことではないかと思うのです。イエスさまからの声、それはわかりにくく、聞きたくない場合もあるでしょう。でも「聞き分ける」ことの力をすでにわたしたちに託して下さっている神に信頼し、人生の目的地に向かう決断ができる羊になりたいと思います。

礼拝は誰のために

管理司祭 ロイス上田亜樹子
2025.5.4


今日は「ウェルカムサンデー」という礼拝を、主日礼拝としてお捧げします。実は、「教会はそのつもりがなくても、十分には門を開いていないのでは」こんな疑問からスタートしたプログラムに、今年は挑戦してみることになりました。教会生活も長く、キリスト教用語に慣れているメンバーも頼りになりますが、その一方で、知っている仲間同志の親交をあたためることで留まっていては「教会」と言えるのかどうか、甚だ疑問だったからです。

 そこで、あえて教会暦ではなく、「イエスさま」「心の平和」「ゆるし」「恵みと賜物」「いのち」という5つのテーマを挙げ、奇数月の第一日曜日に、10時から、(こどもフリースペースの礼拝とも合体させた礼拝をお捧げすることにしました。昔の言い方だと「伝道集会」かもしれません。

 「キリスト教用語」を振り回さず、伝えたい内容をどのように伝えるか、一生懸命知恵を絞りました。礼拝はハツ体験、という方にどのくらい近づけるか、それは早急に判断できないことですが、その一方、わたしたち教会の内側にいる者にとって、みんなで試行錯誤することによって、自分自身が問われるという経験にもつながると思うのです。それは、「三代目のクリスチャン」であろうと、年齢=信仰歴のベテランであろうと、「初めての方」と一緒に礼拝する、という準備を通じて、自身の信仰生活をさらに深くふりかえり、神さまにより近づき、そして霊的生活がさらに成熟していく体験にも繋がると思うからです。

 礼拝を通じて「礼拝のお作法」を押し付けたいのではなく、なんとかして「あなたが大切」と伝えようとされる神さまの働きに参与したいのです。それは、たとえ一期一会であっても、この世の価値観とは異なる「無条件に愛され」「尊重される世界観」への招きであり、万人が幸せに生きることを望んでおられる神さまの切実な願いの共有です。今、あなたの心の中に浮かぶ人、心配だけれどそっと遠くから見守っている人も覚え、その方々の幸せを心からご一緒に祈りたいと思います。 

正直に生きよう

管理司祭 ロイス上田亜樹子
2025.4.27

ヨハネによる福音書20:19-31

 イースターを迎えた教会は、まるでいのちを吹き返したようでした。礼拝堂が人でいっぱいになる恵み、みんなで一緒に歌うイースターの聖歌の恵み、そして3名の方が洗礼を受けられた恵み。喜びと感謝が溢れました。そのイースターの次の日曜日は、毎年同じ聖書が読まれます。(教会の暦は、ABC 年という呼び方で3年一周期となっており、それぞれ読むべき聖書箇所が指定されています。今年はちなみにC年です)そのようなわけで、通常は4年目にやっと同じ聖書箇所を読むことになりますが、イースター後の日曜日は、このトマスの物語を読みます。毎年読むほど、何がそんなに重要なのでしょうか。   
    

 ところで、十字架上で亡くなり三日目によみかえったイエスさまを、最初に発見したのはトマスではなく女性たちでした。他の人々が恐怖で震えて何もできないでいる中、彼女たちは現実的でした。行動を起こす元気があったからではなく、もう居ても立ってもいられなかったのでしょう。夜が明けるのを待ち、申し合わせて香油を携えて墓に行き、そこで何かが起きたことを知ります。そして「イエスさまは居なくなったのではない、私たちと共に今もおられる」と言い広めはじめます。一方、いわゆる十二弟子と呼ばれる中心人物たちは、次は自分が逮捕され殺されるのではと、息を潜め引きこもっていました。当時の支配者による処罰も恐怖でしたが、なんと言ってもイエスさまが殺された、精神的なショックは何よりも大きかったでしょう。この先どうしたらいいのかわからない、神さまの計画について相談することもできない、ないない尽くしの中、たとえ命があったとしても、一体何になるというのだという気持ちだったと思います。 

 イエスさまは、そんな弟子たちを気にかけられたのでしょう。彼らが鍵をかけて籠る家にイエスさまは現れたけれど、その時なぜかトマスは不在でした。後にイエスさまの訪問を聞いたトマスは、喜びモード溢れる弟子たちを前に「いや、実際にイエスさまの傷に触れてみるまでは信じない」と断言します。素直に喜べばいいのに、一番聞きたかったニュースのはずなのに、トマスは簡単には受け入れません。自分以外のお弟子が「イエスさまは生きてここに来た」と口を揃えて言っても、「わたしは信じられない」と返すのは、なかなか勇気のいることです。「追い詰められた末の集団幻覚」と解釈し、こっそり心の距離を置く方が安全だったかもしれません。ところが、このようなトマスのために、イエスさまは再び現れてくださいました。そして信じられないトマスを叱るのではなく、直接「さあ、この傷に触りなさい」と語ります。それは、うわべを取り繕うのではなく、信じたつもりになるのでもなく、正直に自分の「信じられない」限界を認めるトマスの謙遜さに、そっと触れてくださるイエスさまのやさしさです。

 わたしたちも、「信じたつもり」になっていないかどうか、時々 自分に問うことが必要かもしれません。神さまを全面的に信じているときも、信じたつもりになっているときも、そして信じられないという気持ちでいるときも、変わりなく愛で包んでださる神さまが共におられる。そのことを忘れないで、勇気を持って自分の弱さをも受け入れていきたいと思います。

主の復活 ハレルヤ

管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.4.20

ルカによる福音書24:1-10

 復活の物語は、女性たちが助け合いながら、勇気をふるってお墓に行くシーンから始まります。イエスさまは、大勢が見守る中で十字架にかかって亡くなった、それはもう動かし難い事実です。人生をかけて数年間、関わってきた人々にとっては、すべての希望が消え生きていく原動力も失い、漆黒の闇に突き落とされた気持ちだったのにちがいない。眠れぬ夜を過ごした女性たちは、それでも勇気をふるい夜が明けるとお墓に走ります。お墓は空っぽでしたが、狼狽えていると、見たことのない2人からこう告げられます。(イエスがガリラヤで言っていた事を)「思い出しなさい」。

 わたしたちも大切な方が亡くなったとき、神さまにその方を守ってくださるよう平安を祈り、そして残された方々の寂しさや悲しさを担い合うことに努めます。でも「思い出しなさい」というこの投げかけによって、女性たちは、さらにプラスのミッションがあったことを思い出しました。それは、「 大切な方を通じて受けた恵みを、あなたはどのように生かしますか」ということです。イエスさまに縋りついているだけではなく、悲しみや喪失感に浸っているだけではなく、こうなることは告げてあったのに、それまでにいただいた恵みや新たに拓けてきた世界のことを、どう他の人々に語り継げるのか、ということをスッカリ忘れていたわけです。でもそれは、「その人がどんなに偉かったか」を話題にするということではなく、自分自身が受けた恵みについて、神がどのように働かれていると見るのか、何を伝えていただいたか、そして現在の生活の中で、何をどう実践していくのか、と聞かれているのではないでしょうか。

 一方のイエスさまも「生き返って元に戻った」のではないと思います。諸説あるでしょうが、100%神で、100%人間だったイエスさまは人々と共に生き、その使命を十字架という出来事によって完結した。どこからどこまでが神でどこからが人間か、という区分は難しいにせよ、人間の部分のイエスさまは終了し、神の側のイエスさまが戻っていらした、そんなイメージではないかと思うのです。日本語の「復活」は、どうしても「過去の姿に戻った」印象が強いですが、十字架が敗北ではなかったこと、神は人間を捨てていないことを、お弟子さんたちをはじめ、かかわった人々に、そしてわたしたちに知らせるために、今度は、今まで現れなかった神の子キリストとして、その身を起こしてくださった、それがイースターではないかと思うのです。

キリスト教の神

管理司祭 ロイス上田亜樹子
2025.4.13


ルカによる福音書第22章14節~23章56節


  いよいよわたしたちは、イエスさまの十字架を記念する「聖なる週」を迎えました。今日の旧約聖書は、キリスト教の教会ではどんな神さまを信じているのか、をよく表している気がします。それは「君臨」とは対極をなす神。圧倒的な力で相手をねじ伏せる「えらい」神ではないのです。

 

現代社会に生きているわたしたちには「わかりやすい」ことが求められるので、わかりやすい説明やアプローチ、人に理解される行動を探し求めます。「私を納得させろ」という圧が当然のように存在し、納得させてもらえないなら無視するのも正義、そんな風潮さえ感じます。

 

そんな空気に慣れてしまっているので、人のために尽くしても対効果は見えにくい、人から尊敬されることもないという、イザヤ書に描かれた神は、「神々しい」どころか説得力もなく、“仕事のできない駄目印”(『大切なきみ』)をつけられてしまいそうなイメージすらあります。

 

 「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」このような神はあまりにも惨め過ぎて、誰も知り合いになりたくないかもしれません。しかもその神は、病いや痛みを代わりに負った挙句、それらを他人事として見下していた人々に、怒りや天罰を下すのではなく、「自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する」「自らを投げ打ち、死んで、罪人のひとりに数えられた」と、呆れるばかりの人のよさ。「キリスト教の神は何故そこまで卑屈なのか」と言われるかもしれません。

 

 しかし神の目的は一つです。人々が誤解しようと見下そうと、「あなたが大切だ」というメッセージを、すべての人に届けたい。わたしたちの存在を愛したい神は、誰にも理解されない苦しみを、報われない惨めさを、孤独の中で見捨てられている辛さを、分かち合おうとする。そして上昇気流に乗っている時ではなく、わたしたちが「どん底」に居ると感じる時に、自ら暗闇に降りてきて、一緒に歩きたいと思っていることを伝えたいと思う神。それのために、イエスさまはわざわざ十字架にかかられた。このイザヤ書を繰り返し咀嚼しつつ、ご自分の役割をそこに投影されたのではないかと思うのです。そして短い生涯の最後に、与えられた使命を全うするために、十字架へと向かわれたのではないでしょうか。   

 

「もったいない」

管理司祭 ロイス上田亜樹子
2025.4.6

ルカによる福音書20:9-19

電気のつけっぱなしなど、もったいないエネルギー消費や飢餓や温暖化も他人事、自分さえ良ければいいという思想は、明らかに間違っているでしょうが、残念ながら、他者の見当違いはすぐに目に止まるのに、自分がしているもったいないことには、なかなか気がつきません。世界でも珍しい「水道の蛇口から出る飲料水」を垂れ流しにしていても、心を込めて調理された料理をさっさと捨てている現場を目にすると、「もったいない」 と、ひっそり心が痛むことがあります。でもその深層には「心が痛む」 だけではなくて、無駄にしている事実を指摘し非難したい、という衝動が潜 んでいるかもしれません。

 神さまは私たちに、「愛に生きてほしい」というメッセージを、無条件に無尽蔵に、諦めることなく送ってくださいました。それは、ある時は「律法」であったり「預言者」であったり、時代を越えてあの手この手を尽くされたのですが、人々は、苦しみや悲しみが喉元を過ぎればなんとやら。神さまの愛を軽視し、現実はそれよりも大きいと言ったりします。挙句の果ては、神さまの愛は何処 にあるのかわからないし、恵みや慈しみなんて見えないと、言い出す始末です。

 今日の物語に登場する「しもべを虐待し、跡取り息子を殺害して財産を奪う農夫」とは、まさに神の恵みを無駄にする人々のことではないか と思うのです。もっともこれらの人は、神さまの思いを台無しにしよう と意図的に行動しているわけではなく、彼らの考える生活に必要な正義を貫いている思いなのかもしれません。しかし、目先の利益に固執するとき、わたしたちもまた、この農夫たちのように、神さまの愛や恵みを受けることなく、排水溝へと流してしまっているのかもしれません。

 来週はもう棕櫚の日曜日。イエスさまは、まっすぐ十字架に向かって進んでおられます。十字架にかかってまでしてわたしたちに伝えたいこと。そ れは律法によるものではなく、預言者によるものでもなく、単純だけれどむずかしい「神と人を愛する生き方」なのでしょ う。

手をひろげて

管理司祭 ロイス上田亜樹子
2025.3.30

ルカによる福音書15:11-32

  レンブラントの「放蕩息子」の絵を見たことがある方も多いと思う。散々好き勝手をした挙句に財産を喰い潰して帰ってきた息子を、父親は肩を抱きかかえて迎える。本人の服はボロボロで足は怪我をしているのか汚れているのかよくわからない。光が当たっている父親の脇で、彼らを見下ろす兄と思われる背の高い男性は、冷たい視線の横顔だ。正面奥にいる人々は、そのあたりの闇に溶け込んでおり、心理的な距離さえ感じる。

   この物語は、「ゆるし」をテーマとしてはいるが、「ゆるし」は、過去の痛みと怒りの体験にフタをすることではないし、怒らなくなれば「ゆるした」ことになるのか、という問題もある。また、ゆるせないのは、他人に対してだけではなく、自分にも向く。さらに他者を「赦したくない」という現実もある。そんな中で、「父親」はすべてを越えて、「いのちが回復されること」のみ喜ぶが、わたしたちがこの父親と同じことができるとは到底思えない。

  実際、この物語は人間の「ゆるす/ゆるさない」の話ではなく、神はどんなときもわたしたちをすでに「ゆるし」てくださっていて、恵みによって自分自身に立ち返ろうと決心した場合、いつでも受け入れてくださる、という話なのではないかと思う。人間の側が「こんな自分では恥ずかしくて神の前に立てない」と勝手に決めても、神はそんなことより、「いのち」を選ぶ本当の意味で、その人が幸せに生きる道を見つけ出すことのみを願っておられる。

 「いのち」は、その人にとっての生きる道。その人のこの世でのお役目を見つけ出すこと。それはそのまま愛に生きることでもあり、たとえ道に迷い、行き先がわからなくなっても、散々道草を喰っても、大きな手を広げて迎え入れてくれる神の存在がなければできないことかもしれない。

「悔い改め」の目的

管理司祭 ロイス上田亜樹子
25.3.23

ルカによる福音書13:1-9

 痛みの事件からスタートの福音書です。みんなが礼拝をする神殿の内部で暴力がふるわれ、その人々が神さまのために捧げた動物と共に血が流されました。シロアムの給水塔が崩れ落ちる事故があり、たくさんの人が犠牲になりました。このような痛ましい事件や事故の記述は、飛行機事故や、つい先日のガザの空爆を思い起こします。それらをどうすることもできない無力感に打ちひしがれますが、同時に「自分たちでなくて良かった」という思いがあるとしたら、被害に及ぶ罪を犯したから彼らは被害に遭ったのに違いない、というロジックになってしまいます。そのことをイエスさまは、はっきり否定されたのでしょう。しかしながら、「悔い改める」というアクションが、悲劇を遠ざけるということではなくて、悔い改めのない人は、結局最初から空虚なものに縋りついているのだ、と語っているのではないかと思うのです。

 後半に続くいちじくの木の話も最初は不可解です。1つ目の犠牲の話となぜセットになっているのか意図が見えにくい。ある本に書かれていたことですが、ぶどう園には当時、いちじくの木を植えるのが常識だったそうです。その目的は、ぶどうの木/つるをいちじくの木に這わせるためですが、同時に滋養のある実も収穫できるし、聖書の中ではいちじくは、よく登場する果実です。ところが、後半の「主人と園丁」の会話では、実がならないなら無駄だから切り倒せというやりとりになっています。実を収穫するいちじく畑ではなく、ぶどうの生育のために植えたはずなのに、なんだか目的が食い違っています。

 わたしたちは毎年大斎節という機会が与えられています。それは我慢大会をする季節なのではなく、一番大切なことを取り違えていないかどうか、目的と取り組みが錯誤してしまっていないどうか、ご自分の生活を改めて確かめる、恵みの時なのではないかと思うのです。

狭い戸口のあたたかいおうち

聖公会信徒 グレース神志那愛恵
2025.3.16

ルカによる福音書13:22~27, 29, 30

 「狭い戸口から入るように努めなさい」この言葉に触れる時、これまでずっと、狭い戸口から入ることのできる自分へと変わらなければダメだ!と言われているような、厳しさを感じていました。けれども今回改めて読んだ時に、イエスさまは「変わらなければダメだ、狭い戸口から入ることが出来ないとダメだ」と否定するようなことは一切仰っていなかったことに気付かされました。

 狭い戸口から入りたくても、そのために自分自身を変えたくても、変わりたくても、言葉で言うほど現実は簡単ではありません。認めたくない/ありのままの自分を認めて受け入れるのも、とてもハードなことです。頑張りたくても、心が追いつかなかったり、めげてしまったりすることも沢山あります。イエスさまはその困難さをご存知だからこそ、「狭い戸口から入るように努めなさい」と勧めたうえで、「入ろうとしても入れない人が多い」と理解して下さっているように感じます。そもそも、「狭い戸口から入るために綺麗さっぱり変わり切った完璧なわたし達」を、神さまは望んでいらっしゃらないのでは?とすら思うのです。

 わたし達が「狭い戸口から入るために変わりたい/変わろう」と心に決めたら、無理矢理ドアを開けようとしなくても、きっと神さまは内側からドアを開けて、食卓に招いてくださるのではないでしょうか。今日は良かった!と満足できるような日は一緒に喜んでくださるでしょうし、今日はダメだった…という日にはギュッと抱きしめて下さると思うのです。そして神さまの元で心と身体にエネルギーをチャージしたら、一緒に歩んでくださると信じています。不完全なわたし達のことを、決して神さまは否定しないでしょう。

 そして、神さまと共に食卓を囲むよろこびを知ったら、「次に狭い戸口を入ろうとする人を、あたたかく迎えられるようになりたい」と思います。それぞれに狭い戸口を持つわたし達が、みんなで食卓を囲めた時、きっと神さまは心からよろこんでくださると思うのです。   

よそか(40日) ふる(経る)まで

管理牧師 ロイス上田亜樹子司祭
2025.3.9

ルカによる福音書4:1~13

 さて、あっという間に大斎節に入りました。こどもの頃は、大斎節になると一体何が「降って」くるのだろうと思っていました。福音書では、イエスさまが遭われた3つの誘惑を語っていますが、断食して身体が弱っておられる中大変でしたね、と納得するためではなく、40日間断食した強い意志とか、誘惑に陥らない信仰に感謝しよう、と言っているのでもないと思います。むしろわたしたちもまた、心惹かれるような誘惑の中で、それが悪魔によるものなのか、天使の声なのか、識別することを常に問われているという現実を、認めることから大斎節が始まることを告げているのではないかと思うのです。

 最初の誘惑は、「石をパンに変える」誘惑です。飢えは生命の危機と直結します。石をパンに変えれば、イエスご自身も、たくさんの貧しいこどもや大人も救えるのではないか、また、彼らの必要を満たせば、神の言葉も届きやすくなるのでは、そんな誘惑です。一方で、パンが自動的に手に入るようになれば、それが「当然」となり、結果的には神への信仰ではなく、依存を引き起こすのではないでしょうか。

 2つ目は、「地上の権力を全て握る」誘惑です。こんな単純な誘惑に引っかかるはずないとは思いますが、努力しても結果が出ないと、早く、確実に結果を手に入れる方法ばかりが気になるようになります。権力を手に入れれば人々の間違いをただし、悪を行なって憚らない権力を追い散らせる。神の愛を聞かない輩は排除できるし、強く勧めれば洗礼だってホイホイ受けるかもしれない。それの何が間違っているかと、悪魔は囁きます。でもそれは、イエスさまが伝える神の姿とは違います。低みにいるわたしたちと一緒に居ようとする神は、圧力を与えて従わせる存在ではありません。

 最後は、「本当に神がいるかどうか確かめる」誘惑です。人生の中には、神さまに賭けて前に踏み出すしかない時もあるでしょう。でも必要がないのに「やってみろ」と勧めるのは悪魔の仕業です。神への信頼ではなく依存を引き出すことが目的だからです。さて、あなたにとっての誘惑はどんなことなのでしょうか。それを踏まえて神さまの前に座りましょう。

いちばん大切なことは何か

管理牧師 司祭 ロイス上田亜樹子
2025.3.2

 ルカによる福音書9:28-36

なんとも不思議な話が、今日の福音書です。イエスさまの服が白く輝く光に包まれたり、いにしえの伝説の人物でもあるモーセとエリヤが出現して何事か一緒に相談していたり、はたまたそこに居たペトロたちは、やたらに眠くなって、分けのわからないことを言ってみたり、と話は続きます。2千年を経た今も「あなたは苦悩するイエスさまの前で、居眠りしてましたね」と言われ続けるペトロさんは、少しお気の毒ですね。

 

聖書には「夢を見る」話は結構出てきます。しかし「居眠り」の話はそんなに多くない気もしますが、「居眠り」は、その人がそこにいるのだけれど「不在である」という暗号だ、という説もあります。心そこにあらず。つまり聞いて見ているのに何も聞いていない見ていない。ペトロさんも他のお弟子たちも、イエスさまのことを理解したいし理解しようとはしている。でも本当のところはわかっていない。イエスさまが一番伝えたい「神さまの愛に生きる」ことも、また十字架の意味も、本当はわかっておらず、どこかでこの世の成功や達成、そして人々の心に残り、崇拝されるであろうイエスさまと自分とを重ねて観ているようにも見えます。

 

それでも神さまは、、ペトロやお弟子さんたちに、イエスさまを語り伝える役割を託しました。その後、イエスさまが一番辛いときに自己保身のために逃げ出し、言い逃れのウソもついてしまう彼らについて、わたしたちは聖書を読んで知っています。そういう弱さも醜さも、そして居眠りもする彼らを、神さまは用いられた。

 

わたしたちもどこかで「もっと清い生活なら」「弱さを乗り越えたら」「ダメじゃない自分になれたら」神さまの前に立てる、と思っていないかどうか、確認する必要があると思うのです。大切なことは「愛すること」を伝える使命です。自分の不十分さを、あれこれ言い訳にしないで、一番大切なことを示してくださっているイエスさまに、ついていきたいものですね。

愛を出発点に

管理牧師 司祭 ロイス上田亜樹子
2025.2.23

ルカによる福音書6:27-38


「敵を愛せ」「悪口を言う者に祝福を祈れ」「誰にでも与えよ」

ああ困ったと思うのは、私だけだろうか。祈ること自体は、いくら祈ったところで害にはならず、何も減らないと思う。場合によっては気軽に祈れないときもあるが、とりあえずやってみようとは思える。しかし「誰にでもなんでも与え」たり「敵を大切にする」ことは、実行した側に実害が伴う。やり方によっては、相手のためにならない結果を招くことも。そんなことを、お薦めしてよいのだろうか。

マタイによる福音書に、似ている内容の箇所があるが、こちらは、少し実行しやすい。「貸してくれと願う人に背を向けてはならない」とあるので、相談くらいにはのってあげようという気持ちになる。仲間内で親切にし合うなんてことは、最低な輩でもしているのだから、そんな世の中の常識レベルではなく、もっと完全(成熟)な者を目指しなさいという勧め、これも頷ける。普通に考えて、皆が実行したら、世の中がもっと住みやすくなりそうだ。

しかしここでルカに戻るが、神の国と人間的な住みやすさとは、別のものなのかもしれないとも思う。「自分がされて嫌なことは、人にもしてはいけません」「自分がされて嬉しいことを、人にもしてあげましょう」こんなフレーズの範囲内に留まることを、聖書が薦めているようには思えない。

手がかりとなるのは、特祷の「愛はもっともすぐれた賜物」という言葉なのではないか。行動をした結果や効果ではなく、人々にどう喜んでもらえたかではなく、その基に神さまがわたしたちに伝えようとされている「愛」があるかどうか、それがすべてだ、と言っているのではないかと思う。今日の箇所は長いが、日常生活の中で、私たちの行動と言動のすべてが、「愛」から出発しているのかどうか、そんなチェックリストかもしれないと思う。

神からの力を受ける

管理牧師 司祭 ロイス上田亜樹子
2025.2.16

ルカによる福音書6:17-26

今日の福音書は、「教会とは何か」について、恐ろしいほど端的に伝えているのではないでしょうか。清く正しい生活をしている人が集まる聖所ではなく、本当の神に従う人を増やす養成所ではなく、教会は「神の力によって手当され、いやされ、現場へと送り出される」場所です。また、「癒され」る権利を優先的に享受できるのが信徒なのではなく、手当と癒しと派遣の働きの大切さを認め、それを大切にしていきたいと望む人が信徒です。

ところで、日曜日に行われる礼拝は、教会の働きの集約点かもしれません。でも礼拝に出席してさえいれば、心の中はどんなでも、「神さまに対する義務」を果たしたことになるのでしょうか。プラットホームで電車を待ちながら、料理をしながら、お風呂に浸かりながらでも、生活の中で祈ることはできます。でも「ながら祈り」ではなく、礼拝は「祈ること」に集中できる時間であり、兄弟姉妹の祈りの輪に加わり支えられると、皆の祈りがひとつとなり、一人で祈る時には限界のあるわたしたちも、生きる力をいただく時間へと「礼拝」が変わっていくことが可能になるのだと思います。

毎月第一日曜日に、わたしたちは「月島聖公会の祈り」を唱え、毎月、教会の原点に立ち返ります。「地域に仕える教会の働きを担ってきた」ことのできる恵みを感謝するためです。たとえ人々が気がつかなくても、「仕える」ことに徹底するのが教会だ、神の国の住人だと、この祈りは伝えます。

今日の福音書は、「貧しい人々は幸いである」と語ります。まるで貧しくない人が、もっと大変な人々もいるのだから、あとでちゃんと神さまがご褒美を用意していてくださるのだから文句を言わないように、などと読んでしまうと、これはもう福音ではなくなります。結果がすぐにはわからないときの方が多いけれど、神さまを切に求めようとする人は現状がどうであれ「幸い」であり、今満足している人は「神さまがいなくても大丈夫」と思うことで「不幸である」と言っているのではないでしょうか。神さまの力を受けているにもかかわらず捨ててしまうような自己防衛に陥らず、惜しみなく注がれている愛を分かち合う教会になれるよう、祈り続けたいと思います。

わたしたちも弟子

管理牧師 司祭 ロイス上田亜樹子
2025.2.9

ルカによる福音書5:1-11


 荒野で悪魔の誘惑にさらされたのち、イエスさまはまず、ガリラヤ湖周辺の町や村で、神さまの愛を伝え始めます。それは「まず地元から」という概念を、イエスさまが持っておられたという見方もあるでしょうが、そもそも生まれ故郷に定住せず、あちこち動き回るような人生は、当時は一般的ではなかったようです。大都市で一旗揚げる元手はない、知人のいない都市での就職は難しいといった事情もありますが、たとえ家を継ぐ長男でなくても、大家族の一員として次男以下みんなが家業に加わって故郷で一生を送る、それが当然の流れだった。それだけに、「長男なのに」ある時から家業には勤しまず、洗礼運動に加わり、荒野で1ヶ月以上行方不明になるなど、イエスさまに対する世間の目は、すでに「変人」という烙印を押していたかもしれません。

 にもかかわらず、イエスさまが愛の神を宣べ伝え始めると、群衆は押し寄せます。現状維持を望む人々からは憎悪を向けられますが、努力すれば人生がよくなるような希望を持てない閉塞感の中で一生を送るしかない人々は、イエスさまの声に耳を傾けます。「罪人」(=律法に沿った生活を実行できない人)以外の生き方では、食べていくことも難しいような人々は、悪霊からの解放と癒しが「罪人」にも実現した、それを目の前で見て常識がひっくり返り、「神さまにとってあなたが大切なのだ」という知らせに心を開きます。

 それまでのイエスさまはソロ活動でしたが、ここで初めて仲間を招集します。一般的には、弟子という言い方になりますが、師匠の言うことに洗脳されやすい従順な人ではなく、疑問も抱かない御し易い人ではなく、かと言ってすぐ戦力になる識者でもなく、高貴な生まれでもなく、(おそらく)無学で生活に追われてきた漁師に、「恐れることはない」と告げて、一緒に歩む者としました。聖書を読み進むとわかりますが、弟子たちはまるで現代人のように気をつかったり、遠慮したりして、イエスさまが一番伝えたいことを、果たして理解しているのか?と頭を捻るような場面も、出てきます。その一方、やたら常識的だったり、悩まされてきたはずの律法をイエスさまに押し付けたりして、それこそ「その辺にいる普通のおじさん」です。そのまま年を重ね一生を終えるはずだったシモンペテロやヤコブ、ヨハネに何が起きたのか。最初はシモンペテロも、イエスさまの「網を降ろしなさい」という言い方に、いささか抵抗があったかもしれません。「何十年も漁師をやっている我々が、夜通しあれこれ試したのに何も釣果がなかった。ど素人がいったい何を言っているんだか」と。しかしここで大事なのは、その後どんな奇跡が起きたのかではなく、彼らがイエスさまとの出会いに目を開かれた心開かれた、ということではないかと思うのです。家業や財産そして家族やキャリアもその場に置いて、イエスさまと同行する者となりました。

  今週、わたしたちは「行うべきことを悟る知恵」「忠実に成し遂げる恵みと力」をお与えくださいと祈ります。(顕現後第5主日の特別のお祈り)これは、わたしたちもまたイエスさまの弟子であるという大前提の祈りです。自分で判断し自分で自由に選び取るように招く言葉です。しかもそれは、わたしたちがどんな状態にあっても、社会がどう評価しようとしなかろうと、人々の目にはそして自分の目にも、どのような役に立っているのか見えにくくでも、「神さまの目に私は不可欠」と信じる、そんなわたしたちの働きを見分けていきたいと思います。

執着ではなく愛を

管理牧師 司祭 ロイス上田亜樹子
2025.2.2

ルカによる福音書 2:22-40

「被献日」は、命名日(割礼を受ける)とは別の目的で、出エジプト記や民数記に根拠を置いた記念日です。わたしたちがこの日に用いる福音書の箇所には、被献日に神殿に詣でた2つの習慣が一緒に描かれています。1つは、出産を終えたマリアのけがれの期間が終わったことを祭司に宣言してもらう習慣です。️男の子は40日間(女児は80日間)と定められていて、その間は、外出したり人に会ったりすることを避けます。おそらく、産後の休息という目的もあったと思いたいですが、女児の場合、2倍も「汚れている」期間があるのが少し謎です。もう一つは、母親の胎から初めて生まれた男の子の命を神に捧げるべきところ、代わりに動物を生贄として捧げて、神の占有を刻印する習慣がありました。起源としては、イスラエルの人々がエジプトを脱出するとき、家々の鴨居に動物の血を塗り、こども(ことに初子)を殺さないように、神に「過ぎ越して」もらった(命を救ってもらった)ことから生まれた習慣であると言われています。

 

このようなユダヤ教の習慣を聞いても、そこからどんな良い知らせを受けるのか、少し戸惑います。最初に生まれたからと言って、その子だけ「神に捧げる」ということも、まして生贄にするなんて発想はありませんし、神さまはそんなことは望んでおられないはずです。

 

この福音書の後半では、長い間「救い主」を待ち望んでいた二人の老人が登場し、神への賛美を口にします。長い間待っていて、ああやっとやって来てくださった、会えてうれしい、という気持ちは溢れてきても、そこにはイエスさまを私物化する表現はありません。

 

世の中は、利己的な執着を愛情と勘違いする人々で溢れています。すがりつかないと「冷たい」とあしらわれたりもします。長い間待っていた挙句、やっとそれが実現すると、あたかも「自分だけ」が待っていたかのように振る舞う人もいるでしょう。しかし、シメオンも、アンナも、あくまでも栄光は神に帰し、神の国の実現だけを喜び、それを人々に伝えます。口当たりのよい慰めではなく、神の正義が行われることを渇望する、神への信頼です。マリアは「心も剣で刺」されるという予告にあるように、それは平坦な道ではないでしょう。膿を最初に出さなければ治癒はないからです。

イエスさまは何のために

管理牧師 司祭 ロイス上田亜樹子

2025.1.26

ルカによる福音書4:14-21

今日の福音書は、イエスさまが洗礼を受けられ聖霊に満たされ、そして荒野へ出向かれる、いわゆる「悪魔の3つの誘惑」に遭ったのち、公生涯と呼ばれる最後の3年間を過ごされる物語の冒頭の部分です。

 まずガリラヤへ行かれ会堂で話され、人々から「尊敬を受けられた」という話からはじまるのですが、次に故郷のナザレのユダヤ教の会堂に入り、聖書を読み上げると、最初は感激していた人々が「つぶやき」始めます。このつぶやくシーンは、今日の福音書からはカットされていますが、さっきまでイエスさまの話を聞いて感激していた人々は、話の後半では憤慨し、なんと崖から突き落として殺そうとします。

 イエスさまがその時に朗読し、解き明かした聖書の箇所は、「貧しい人に福音を告げ知らせ〜圧迫されている人を自由にする」というイザヤ書でした。そこでイエスさまの朗読とお話を聞いていた人々は、皆が敬愛するイザヤ書を、彼らの期待どおりに「これは、あなたたちのために語られた恵みの知らせだ」と受け止めていた間は、喜んで聞いていました。ところが、イエスさまのお話が進んでいくと、実は自分たちに向けられたことではなく、貧しい人々だということがわかってきました。  

 つまり神さまが心にかけておられるのは「あなたたちではない」と、イエスさまからはっきり言われたので怒ったのでしょう。耳ざわりのよいことをイエスさまが語っている間は感激し、想定外の知らせを聞くと彼を殺そうとする、これはまさにイエスさまの生涯そのものだったかもしれません。

 著名人や権力者、また町の有志や人々から尊敬されている人が、神さまの恵みの対象ではなく、当時の社会で「神さまの恵みから漏れている」と決めつけられている人々、病気の人、抑圧されている人こそが、愛を注がれる人であり、神さまが関心を持つ人々であると告げています。それは「かわいそうな」人々に、特別に神さまが豊かに哀れみを下されるということではなく、生きていることが苦しくてたまらない、なんとか自分の生き方を変えようと七転八倒している、努力してもいっこうに事態が改善されない、そんな人々の最も近くに神さまがおられる、その人々の苦しみや悲しさを分かち合う神さまであると告げに来られたイエスさまの生涯を表しています。

イエスさまを分かち合う

管理牧師 司祭 ロイス上田亜樹子
2025.1.19

ヨハネによる福音書2:1-11

聖書の中には、不可解な会話がいっぱいですが、今日の福音書も行き違いの会話に満ちています。母マリアと息子のすれ違いもリアルですが、何がおきたのかその背景を把握しているとは思えない花婿を、これまたよくわかっていない宴会幹事が讃えたり、挙句の果ては、この最初の奇跡を目の当たりにしたお弟子さんたちが、イエスさまを「信じた」というくだりで福音書が締めくくられます。

 

  バプテスマのヨハネとの出会いの後、いよいよ本格的な活動を開始したイエスさまが、水をぶどう酒に変えたからといって、イエスさまが神である証拠なのかどうか、この奇跡をどうとらえたら本当の命の道へ繋がるのか、信仰と救いに至るのか、今ひとつピンと来ないわけです。しかし、このように感じると同時に、表面的に交わされるやりとりとは別に、水面下でもっと重大な真実が語られ、話が進んで行っているようにも感じる不思議な展開です。

 

    当時のユダヤ人にとってのぶどう酒は、現代のようなお洒落なものではなく、貴重な飲料水よりも身近にある存在でした。それはまるで、イエスさまが人としてこの世に生まれ人生を送られたことが、水のように無色透明、多くの人間の生涯の一人のようにも見えます。しかしその実体は、見捨てられ虐げられた人々と共に歩む生涯であり、ご自身も血を流し苦しみ悩む赤いぶどう酒なのだ、と言っているようにも思えます。そして、わたしたちが聖餐式で分かち合うぶどう酒は「イエスさまの血」であり、十字架上の苦しみと痛みは「イエスさまが請け負う担当なので私は痛い思いはしない」ということではなく、わたしたちもまた、この世の「ぶどう酒」に、イエスさまの弟子として共にあずかることを示しているのではないでしょうか。

 

    顕現節は、クリスマスの余韻に浸る季節なのではなく、イエスさまが「何のためにこの世に来られたか」が顕現する(すっかりあらわになる)ことを、教会の暦の中で、繰り返し反芻する季節なのでしょう。そうまでして神さまがわたしたちに伝えようとされ、分かち合おうとされている「愛に生きる道」をかみしめたいと思います。

イエスさまの洗礼とわたしたち

管理牧師 司祭 ロイス上田亜樹子
2025.1.12

わたしたちが洗礼を受けるときのきっかけですが、以下の全部あるいは一部が動機となり、「そうだ!洗礼を受けよう」という道へと入っていくことになるのかもしれないと思います。

   神さまと共に生きていけることを願い、そのように努めたい

   それまでの自分の弱さやダークサイドをなかったことにしない

   弱さも何も洗いざらい神さまの光の中で受け止めていただく

   自分と神さまという関係だけでは、神さまとの関係を保つのは難しいことを認め、神さまのもとにある家族、兄弟姉妹である教会で信仰生活をおくる

   教会という共同体の中で、神さまとの関係を保てるよう、支えてもらう

   イエスさまの弟子の一人として、福音を伝えるお手伝いをする

   祈りの底力を知り、同時に心が神さまに向いているかどうかで日々の行いが変わることを知る

皆さんはいかがでしょうか。大切な友人やあるいは先生との出会い、、、そんなことも影響しているでしょう。他にもいろいろあるかもしれないのですが、上記のことを願って決心しても、実際はなかなか完璧に実行することが難しい、これがわたしたちの現実です。しかしイエスさまご自身は、上記のどれにも問題を抱えていなかったにもかかわらず、わざわざ洗礼を受けられた。それは何故かなというのが長いこと疑問でした。

 
今日の聖書の前後を見ると、はっきりしていることが1つあります。その後、イエスさまの生涯の最後の3年間が始まります。信頼していても、やはり心配はあったでしょう。途中で放り出すようなことにならないようお守りください、間違った選択をしないようお導きください、最後の最後どんなことになってもあなたを捨てて逃げ出すことのないように、と祈らずにはいられないのではないでしょうか。今日の福音書の前は、バプテスマのヨハネの物語がありますが、この後は、荒野でのサタンによる試み、そして公生涯へともう止められない最後の3年間へと滑り出します。イエスさまにとって、辛いだけではない喜びのときもあったでしょう。そしてわたしたちにも辛い時も喜びの時も、常に「神さまとご一緒に」留まる信頼がありますように!

顕現日(1月6日)は「何を」祝う?

管理牧師 司祭 ロイス上田亜樹子
2025.1.5

 

クリスマス(1225日)からカウントして12日後に当たる、16日が「顕現日」です。今日ではなく明日なのですが、一日早く話題にしています。そもそもどういう意味があったのか、改めておさらいをしておきたいと思いました。


 この祝日は、東方教会(現在のギリシア正教など)で、3世紀頃から記念されるようになったそうですが、当時は、「キリストが洗礼を受けたお祝い」というトーンの方が強かったようです。(現在では、イエスさまの洗礼については、顕現後第1主日に記念しています。)


 4世紀になって西方教会(現在のカトリックなど)でも顕現日を祝うようになりましたが、次第にキリストの受洗を記念するよりは「外国の博士たちが星に導かれてキリストに出会った」ことを強調するようになりました。つまり、ユダヤ教徒以外にも、イエスさまの福音を聞く道が開かれたことを祝うようになりました。


 ところで、クリスマスをいつ記念するかという話も絡んでいます。クリスマスは現在は1225日ですが、ずっとそうであったわけではないことは、皆さまも聞いたことがあると思います。


 3世紀の当初、のちにキリスト教徒になったクレメンスというギリシア人神学者が、「クリスマスは520日」と推測しました。その後、変遷を経て、1225日をクリスマスとして祝うようになったのですが、その最古の記録としては、336年のローマの行事記録に載っているそうです。しかし1225日となった理由は神学的なものではなく、元々あった「太陽の誕生」という異教の祭りに対抗し、「自分たちは義の太陽(=神)の祭りだ」とローマ在住信徒が言い始め、意図的にその日を選んでぶつけたのが真相のようです。しかも地域によっては、採用された時期にばらつきがあり、地中海沿岸では割と早目に取り入れたものの、肝心のエルサレムでは6世紀以降になってから、1225日に移動した様子でした。

 

 このような背景もあり、イエスさまの誕生と洗礼とユダヤ人以外への福音の広がりなど、強調点がさまざまあるものが、さらに変遷して現在の形となりました。そんなわけで、ものすごくざっくり、「1225日から16日までをクリスマスとしてお祝いする」ことになった次第です。

 

「言」は神

管理牧師 司祭 ロイス上田亜樹子
2024.12.29

ヨハネによる福音書1:1-18

今日は少し説明的な話になってしまいますが、このヨハネの福音書のこの箇所では、「言」と書いて「ことば」と読ませるのは何故か、不思議に思っていました。新約聖書の中では、「言葉」と訳される別の言葉(レーマ)がありますが、そこには「神」という意味は含まれていないのが一般的です。レーマは他の言葉と区別する必要もあり、「言葉」「出来事」「事がら」などと訳されています。そして問題のこの「言」(ロゴスというギリシア語ですが)は、神の言葉を指している場合「言」と表現し、その他は「言葉」と表記しているようです。(結局、レーマもロゴスも「言葉」と訳されている部分もあるので、ややこしいです)しかし、ヨハネによる福音書のロゴスはさらに特別な意味が込められています。

1つ目。イエスさまが語られる良い知らせの内容を指し、言葉は「人を救い、命を与えるもの」である、という概念です。2つ目は、神ご自身が発する言葉であり、人は直接聞くことができず、特別に選ばれた人や、神が言葉を託した人のみが聞くことができるものとして登場します。3つ目は、イエス・キリスト自身のことを指している場合。たとえば創世記の「初めに神は天地を創造された」とありますが、そこでは、混沌であり何もない状態に、命と光を与えたのが「言葉」であって、この存在を「言葉」(ロゴス)と、ヨハネは言い換えています。つまり創造の始めから、神とともに存在していたイエスの存在を、ロゴスという言葉で言い換えている、とも言えるでしょう。この神(ロゴス)は、命があって、人格があって、死と復活がすでにプレセットされている存在として記されます。

つまり、神の言葉を聞くことができない人類のために、バプテスマのヨハネがこの世にまず送られますが、これは「2」のお役目であって、彼自身がロゴスなのではない、ということを伝えています。そしてイエスさまの登場です。見えない神、その声を聞くことのできない神を、人々の目に見えるかたちをとって、この世に送られた人格のある存在を、神は送ってくださいます。そして人々の耳が直接聞くことのできる言葉を語る存在として、神は送ってくださいます。そこまでして伝えたいことは何か。それは、わたしたちが神から愛されている存在である、という一言に尽きるのではないかと思うのです。

神はともにおられる

管理牧師 司祭 ロイス上田亜樹子
2024.12.22

ルカによる福音書1:39-45

ガブリエルから突然のみ告げを受けたマリアはかなり必死だったはずですが、150キロ余り離れたユダの町へ単独旅行をするとは、どう考えても現実的ではないです。まだ身軽とは言え、裕福とは思えない彼女が、どうして宿屋に毎晩泊まれたのか、ずっと徒歩だったのか、野獣や強盗をどう避けて無事に辿り着いたのか不思議です。マリアの母親がいたら、10代半ばの彼女を一人で荒野へ行かせるなど、絶対にゆるさなかったことでしょう。

 一方、親戚のエリサベトは、老年になるまで「産まず女」の烙印を押されてきた人です。男の子を産まない既婚女性は、生きているだけ恥ずかしい、神の祝福がない、人には言えない罪を犯したことがある、そんなことの証でした。

 夫ザカリアの元には天使が現れ、生まれてくるこどもについての予告がありますが、エリサベトにはそのような記述もなく、そして二人とも自分のこども以外についての予告は受けていません。にもかかわらずエリサベトは、マリアに会った途端、彼女の胎内に命が宿っていることをすでに知っていて、それが「主」であると声高らかに宣言します。

 この一連のあり得ない物語は、「奇跡をおこすすごい神」を伝えたいのではなく、クリスマス物語の「この世の常識がひっくり返る」一連の出来事の一つなのではないかと思うのです。会話での意思疎通はできたかもしれませんがほとんど市民権もなかった羊飼いと、ユダヤ教のイロハも知らない外国から来た(他宗教の)博士たちだけが、降誕の場面に呼ばれた。当時、死刑の対象だった婚外妊娠したティーンエイジャーと、神から見捨てられた(証拠だった)「子無し」の女性とが、この世の常識がひっくり返るその当事者となった。

 恵まれた環境で育ち教育の機会にも恵まれ、何一つ不自由なく掟を守り、優位に生きる階層ではなく、社会の暗闇に落とされ評価も低く、存在にすら気がつかれることのない人々こそ、神が一緒におられます(インマヌエル)という知らせを、福音書は繰り返し伝えようとしたのではないかと思うのです。わたしたちもまた、この社会の圧力の中で「常識」にすがりつきたくなる時はあるでしょう。ですが、神さまの計画は、そこを超えています。クリスマスのメッセージは「神が共にいる」。わたしたちも、心の底から「神は共におられる」と、声高らかに宣言しましょう。

ではどうしたらよいのですか

管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.12.15

ルカによる福音書3:7-18

 バプテスマのヨハネのことを聞きつけた人々は、自分の身によいことがおきると信じ、洗礼を受けようと我も我もと押しかけます。そういう人々に「マムシの子」などと言わなくてもいいじゃないかと思うし、彼らは単純に、幸せになるための方法なら何でも試してみようと思っているだけかもしれません。でも、タダの景品として、あるいは自分自身は何も変わらずに、もらえるものならとりあえずなんでももらっておこう、という「決断」ならちょっと待った!と言いたくなるのは、少しわかる気がするのです。

 洗礼を受けた当時のことを思い出せる方は、思い出してみてください(私は生後3ヶ月だったので無理ですが)。教役者と共に、いろいろな事前勉強もなさったと思いますが、洗礼を受けることは、人間のグレードアップをすることではないでしょう。神さまの思い、愛と慈しみを受け入れて、本来の自分自身を生きる(結果的には、神さまと人々も。大切にする生き方)ことを決断するものです。自分の嫌なところ卑怯なところ、そして弱さや情けなさからも逃げないで、そこにしっかり踏みとどまって下さっているイエスさまと共に歩く人生のことです。それは、幸福だけが約束される人生ということではなく、危険から常に守られるという保証でもありません。相変わらず、嫌な目や悲しいことには遭うし、どうしたらいいのか途方にくれることも、洗礼前と何ら変わりはありません。それでは何だか意味がないと思うのは、自分の利益、価値観を神さまより優先しているからです。ヨハネが「悔い改め」を勧めるのは、いい人になろうという意味ではなく、神さまと自分との関係を邪魔している、さまざまな障害物を取り除き、まっすぐに神さまの方へ顔を向ける生き方を勧めているのではないでしょうか。 

 わたしたちは、わたしたちを造って下さった神さまの意図からはずれ、自分勝手な世界に執着する一方、世間や他者の顔色を窺い、最後は損か得かで判断してしまいがちになる。それをヨハネは「神さまに立ち帰ろう」と呼びかけているように思います。「ではどうしたらいいのか」という人々の問いに、ヨハネは極めて普通のこと、普段できることしか答えていません。おそらくかたちではないのでしょう。わたしたちの心の内実に、神さまを中心に置いているかどうか、そのことだけが大切なのではと思います。

お役目に忠実に生きた人

管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.12.8

ルカによる福音書3:1-6

 今週と来週は、バプテスマのヨハネの話です。彼はイエスさまの親戚筋。親戚だからどうということはないのですが、思わぬ妊娠で思い悩んだマリアが、神さまを信頼する覚悟を決めるまで話を聞いてもらいにはるばる訪ねたあのエリサベツの息子です。ここで立ち止まるのは話の本筋とは違うのかもしれませんが、マリアについては、(正典の中には)両親の話が出てきません。ひょっとしたら、マリアの母親は早逝しているとか出産の時に命を落としたとか、あるいは両親共に既に他界していた可能性もあります。消去法的に、マリアはエリザベツしか相談できる人がいなかった、ということかもしれません。そんな意味で、唯一の「親戚のおばさん」だったエリサベツも、不思議な経緯でバプテスマのヨハネを産みます。

 「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」という聖書の記述により、ヨハネはユダヤ教の中のエッセネ派と呼ばれる集団に属していたと言われています。かなり厳格で、敬虔かつ聖なる生き方を目指すグループです。各々が職業を持ち市民生活を営みながら戒律を守る、といったファリサイ派の活動形態とは異なり、ちょうど現代の修道生活のように、一定のルールを定めた共同生活をしていたことで知られています。シャベル一個と礼拝の時に着る白衣、そして帯。それ以外は一切の個人所有はなく、3年間の修行期間を経てやっと正式なメンバーになれるというシステム。洗礼を奨励することが主な活動ではなく、むしろ世俗化し権力におもねるファリサイ派やサドカイ派のような生き方(こちらの方がむしろ主流)とは、一線を画そうとするグループでした。

 ヨハネはどこに家があって日々の糧を得ていたのか全く書かれていません。主流派には認められず家族もおらず、孤独で大した成果も上げないまま宴会の余興のついでに首を刎ねられ命を落とす。親だったら「自分の息子は何のために生まれてきたのか」と嘆き悲しむ以外、何も思いつかないような人生です。しかし、彼には神さまからのお役目があった。どうして彼が必要だったのか、スッキリとはしませんが、「わからないから意味がない」と決めてしまうのではなく、神さまの視点に信頼できるようになりたいと思うのです。それがアドヴェントの準備の中身ではないでしょうか。

混乱をおそれない

管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.12.1

ルカによる福音書 第 21 章 25-31 節

 今日の福音書の内容。なんという混乱状態でしょうか。まるで地球の終わり、人類の滅亡を感じるような今日の福音書です。これを読んだわたしたちが怯えることを、想定しているのでしょうか。何のためにこんなことをおっしゃるのでしょうか。そんな疑問が次から次へと湧いてきます。

 太陽が輝く時間がもっとも短く、闇がもっとも長い季節から始まる暦で、今日から教会の一年が始まります。そしてこれは、ユダヤ教の1日の概念と合致していて、1日という始まりもまた日が落ちた夕暮れから始まると考えています。つまり野獣や盗賊が、暗闇に紛れて襲ってくることから身を守らねばならない、困難な時間が、まず1日の始まりなのです。しかしながら、夜が来ないように、人間の力で操作することはできないでしょう。電気をいくらたくさん点けて明るくしても、何か故障が起きると一瞬で暗闇へと吸い込まれるように、それは暗闇を退けられたのではなく、表面的にその事実から目を背けたに過ぎない状態を作り出しているのではないでしょうか。

 同様に、わたしたちの心に住む闇や暗さもまた、表面を取り繕うことはできますが、だんだん隠しているのに疲れて来ると、ついに露呈し、無かったことにはできない現実が現れるのだと思います。

クリスマスのメッセージは、そこにあるのでしょう。わたしたちがお金や時間を費やして、表面上きれいに整えることや、人からの非難を避けるためにうわべを変えることは、もうやめようと。そんなことより、それぞれの最低最悪の状態を認識し、わたしたちが自らのどん底にきちんと立つとき、これ以上考えられないほどの混乱状態を認めるとき、そこにすでに来てくださっているキリストの姿を、はっきり見ることになる、と言っているのではないでしょうか。

  クリスマス前の季節、アドヴェントは、あらゆる暗闇を意識する季節です。わたしたちが「どうせ自分の暗闇には抗えない」と諦めたとしても、それでも絶対にわたしたちを愛することを諦めない神の思いを知る季節です。簡単ではないことを神は承知の上で、わたしたちに知ってほしいと語り続けておられます。

真理を伝えるため、仕えるため

管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.11.24

ヨハネによる福音書 第 18 章 31-37 節


 キリスト教の暦では、今週が大晦日。次の日曜日から新しい一年が始まるのは、なんだか教会が伝統を無視しているように見えるかもしれません。日本には「昇る初日の出と共に、朝陽にキラキラ輝く新しい年を迎える元旦」といったイメージが元々あるのでしょう、新たな年が期待と希望でいっぱいになるように、また、不運は避けて通れるように、普段は神社やお寺に行かない人も、神仏に祈ったりします。新しい年の節目に人生を仕切り直そうという思う気持ちは、自然なことかもしれませんが、一方で不安を覚えるのは「幸運は当たり前であり、嫌なことが起きないよう排除する担当は神」なので、お詣りしておけば神をも操作できるだろう、という下心が透けて見えるときです。
 
 でもそれは、他宗教あるいは無宗教の方々だけの話ではないでしょう。教会の中にも、そしておそらくわたし自身の心の中にも、似たような気持ちがあるかもしれません。神さまは私に便宜を図ってくれるに違いない、クリスチャンでない人より私の味方をしてくれるだろう、何故ならば教会を知らない人より、信徒である自分の方が神に近いし、大切にされているはずだからと。
 
 ドキッとするのは、これはイエスさまが非難されている「ファリサイ派」や「律法学者」と同じ考え方です。「努力の足りない/できない」人々より自分は上等であり、神と親しいと自負しているところが同じです。でもここでイエスさまの生涯を、もう一度心に留めたいと思います。赤ちゃんのかたちをとって貧しい家庭に生まれ、なんの変哲もない苦労の多い人生を過ごし、最後の三年間を、支配者層の恐怖と憎悪の標的となって、ただただ十字架に向かわれた。それはなんのためかというと、「真理について証をするため」であると、イエスさまは言われます。
 
 それは、都合の良い人生を送ることが、信仰深い人の裏付けではなく、不運に遭遇しないことが神に守られていることの証ではなく、辛いことにも悲しみにもどん底にも遭遇するけれど、どんな暗闇の中にも来てくださり、賞賛や感謝をされなくても、泥まみれになりながら一緒に立ち上がるまで、忍耐強く共に居てくださる神の存在に信頼してほしい、それが伝えたい「真理」なのではないでしょうか。そして神さまの言いつけをよく守る「良い子」だけに向けられたのではなく、神さまを信じていない人にも及んでいることを、わたしたちは常に心に留める必要があるでしょう。
 
 一年の暦の始まりが、もっとも暗闇が深い季節から始まり、その闇が来ないように操作することが不可能なように、わたしたちの心に住む闇や暗さもまた、表面上いくら取り繕ってみても、無かったことにはできない性質があるのだと思います。しかし、だから諦めようということではなく、弱さと暗闇を切り捨ててから神の前に立てと言っているのではなく、そんなわたしたちを諦めきれないから、心から愛しているから、わざわざイエスさまを送ってくださった神の意思を知ってほしいと呼びかけておられる。神さまの愛を知ろうとすると、小さな不幸は自分のせいだとは思わなくなります。神さまに信頼すると、新しい力が湧いてきて「あなたは大切な人です」と伝えたくなり、そのように生きたくなります。これが、新しい年を迎える本当の準備ではないでしょうか。

不安に埋もれないために

管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.11.17


マルコによる福音書 第 13 章 14-23 節

 人を動かす大きな要因として、不安という要素があると思います。最悪のシナリオを突きつけて、こうなってしまったらお終いだと思わせる。あるいは、あまり根拠はないけれど「きっとそうはならないよ」とささやき、考えるのを辞めさせる。巷に溢れる「広告」の中にも、なんとかして人々の目に止まり、不安を煽ることで、つい買い物をしそうに仕向けるメッセージが目につきます。

 聖書の時代はテレビもネットもなかったけれど、いろいろな偽の情報は横行し、自称「メシア」や、自称「預言者」があらわれたようです。彼らが必ずしも不安を煽る目的ではなかったにせよ、人々が思わず「そうかもしれない」と信じそうになるくらい本物らしく振る舞う、というのはよくある話なのでしょう。

 聖書の冒頭に出てくる「破壊者」は、特定の個人というよりは、キリスト教徒への憎しみの連鎖や迫害、圧政を強いる支配者層などを指しているのかもしれませんが、一方で、その後語られる、建物の一階よりは屋上に留まるよう勧める話や、独身女性や寡より当時の社会的地位が安定していた妊婦やこども連れが「不利になる」話を聞くと、津波や土砂崩れといった自然の破壊力も想い浮かべます。

 生きている限り不安は常にあるので、それらを消し去ることはできません。しかし、人の目が必要以上に気になり、噂に振り回され、何が大切なことで、何がそれほどでもないことかわからなくなるような、不安を軸に振り回され続ける人生から、自由になることを、イエスさまは望んでおられるのではないかと思うのです。潰されるよりは、魂や心身が抹殺されるよりは、ひとまず「山にのがれ」自分を守ることを躊躇するな、と言ってくださっている。それは、不安に巻き込まれそうになっても、何が大切なのかわからなくなっても、真理であるイエスさまに、まず心の中心に居ていただくことで、わたしたちは右往左往した心の状態から解放され、すぐにではないにしても、少しずつ霧が晴れるように、何を一番大切にしていきたいのか、見えるようになる、そう言っておられるのではないでしょうか。

もちあげられたい人々

管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.11.10


マルコによる福音書 第 12 章 38〜44 節


保育園のこどもたちは、振りむきながら「見て見て〜」とよく叫びます。得意なことや、うまくいきそうなことを、誰かに気がついて欲しい、うれしいことを分かち合いたい、そんな気持ちなのでしょう。「喜びを分かち合ってほしい」という呼びかけは、そこへ招かれた人をも幸せな気持ちにします。しかし大人になっても、それを少し歪んだかたちでやらなければ気が済まない人々がいます。この場合、彼らの目的は、喜びを分かち合うことではなく、力関係で上位にいることを誇示し、思い知らせることです。
 
 長い衣は肉体労働には適しませんから、「高級な」仕事をしているという看板を背負っているようなもの。広場で挨拶されることは有名な学者である証拠だと思っているし、宴会でどうぞどうぞと上座を薦められなければ機嫌が悪くなる。こういう人々は、一時的に神さまから預かった特権ないし権力を、(上から目線で投げ与えることはあっても)必要としている人々と分かち合おうとはしません。力のない立場の筆頭である「やもめ」を「食い物に」(=利用してお金を取り上げる)し、中身もなくダラダラと祈ってみせると「さすが〇〇先生」と皆が感心すると思っている。ふつうに考えても、ただの“痛い人”ですが、困ったことに、権力だけは握っている。そして、社会的立場の弱い人々を抑圧することで、「見て見て〜」行動をしている律法学者たちを、イエスさまは人一倍厳しい裁きを受けると断言されます。
 
 もっともイエスさまは、このような人々は「厳しい裁き」がやってきて仕返しを受けるから安心してほしいと言っているのではなく、人は少しでも力を帯びた途端に、この律法学者のように振る舞いがちであることを、弟子たちに警告しているのではないかと思います。
 
 わたしたちの毎日の生活の中でも、身近に存在する体験かもしれません。そして残念ながら、こういう振る舞いの中にも、こういう視線の先にも、神さまの愛は存在せず、慈しみや希望もありません。自分には僅かでも力があるから、神さまはいなくてもやっていける。力を上手に使いながら、自分さえ良ければよい。そんなふうになってはいけない。諦めてはいけないと、イエスさまは心配そうにわたしたちを見つめておられます。

ひらかれている「神の国」

管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.11.3

マルコによる福音書 第 12 章 28〜34 節

「彼らの議論」という言葉でいきなり始まるのは、その前にファリサイ派やヘロデ党の人々、そしてサドカイ派の人まで出てきて、入れ替わり立ち替わり、イエスさまに質問をした場面がその直前にあるからです。はたして、この物語のようにまとまった時間の中で質問攻めにあったかどうかはわかりません。でも日頃から、イエスさまの言うことに居心地のわるさを感じていたであろう、ユダヤ教内のさまざまなグループの指導者たちの主張をまとめ、一括してひとつのお話にした可能性もあると思います。その流れのしめくくりが今日の福音書です。

ところでこの律法学者は「掟」と言っていますが、ユダヤ教の人々にとって最も中心的な掟は、いわゆる「十戒」です。旧約聖書の申命記(5章6節〜)と、出エジプト記(20章)に登場します。しかしイエスさまが、第一の掟として答えられた「神を愛する」話は、申命記(6章4節以下)に、そして第二の掟として「隣人を愛する」話は、レビ記(19章18節)にあります。つまり、わたしたちが当たり前に聞いている「神さまと人を愛する事が最優先」という教えは、十戒のようにまとまって成文化されたものがあるわけではなく、出エジプト記と申命記とレビ記に分散されたメッセージを、イエスさまが再編成したものとも言えるのでしょう。

それだけに、この律法学者の「神と人を愛することは供え物をするより大事です」という発言は、かなり画期的なことだったかもしれません。その学者が、自説やあるいは派閥の現状維持を第一としていたなら、このようには言わなかったでしょう。この人は支配者層であったにもかかわらず、それまでの神学以外は拒絶するという立場ではなく、真摯に神さまの前に立ち、限界や弱さを持った人間として、イエスさまに聞きます。「どうしたらもっと神さまのみ旨に添うことができるでしょうか」と。

「神と人とを愛する」ことは最上の捧げものであり、神さまがもっとも喜ばれることの一つであると、わたしたちは知っています。そして、この世的なかたちはどうであれ、このようなイエスさまの教えを受け入れ、従って生きようとする人は誰でも、「神の国」に近いのではないでしょうか。

「何をしてほしいのか」

管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.10.27


わたしたちはふだん、何と祈っているでしょうか。ひょっとしたら、困ったこと、嫌なこと、痛みを覚えることを、とにかく「どけてください」とのみ祈っていないかと不安になります。もしわたしたちが、イエスさまから「何をしてほしいのか」と聞かれても、どうなりたいかはともかく、今、困っていることを取り除いてください、それが神たるあなたの役目ではないか、と祈っているつもりになっていたら、そして、どうなりたいかについては、今はそれどころじゃないと思っていたら、それは何かが足りない祈りかもしれないと思うのです。

 もちろんそれでもイエスさまは、耳を傾けてくださるとは思います。わたしたちが、何をどう願ったらよいかわからず、手当たり次第、文句や苦情や愚痴を言っていても、やがてそれらが整理され、わたしたちが道に立ち返り、確かに仰ぎ見るべき望みへと至るまで、諦めることなく、付き合ってくださることは、ちがいないですが、そこまででいいのでしょうかと疑問に思います。

 その点、今日の物語に登場する男性は直球です。最初から「イエスよ、エレイソン(私を憐れめ)」と叫び続ける。お弟子さんたちは、ちょっと困ったにちがいないし、できればこの人に黙ってもらって、予定どおりの旅程をこなしたい、会うべき人に会って、早く落ち着きたい、そんな気持ちでいたにちがいないですが、イエスさまは彼を呼ぶように頼みます。

 イエスさまの問いに対してこの人は、迷うことなく「目が見えるようになりたい」と答え、イエスの旅に加わったとあります。この人にとって、目が見えるようになることは、自由の獲得でした。またそれは、人々の輪から除外され、やっかい者として生きていくのではなく、自分も神さまから愛され大切にされているひとりである、という証拠でした。もはやこの人にとって、医学的に視力を取り戻したかどうかは問題ではなく、一人の人間として初めて尊重され、生きている苦痛が喜びに変わっていく瞬間でした。目が見えるようになるなら本気で祈ろう、ではなく、この人の場合は、イエスさまへの信頼がこの行動へと歩みを起こしました。望みが実現されることが「真の祈り」である証拠にはなりませんが、わたしたちもまた、本当の望みは何なのか、真剣に自ら問う必要はありそうです。

「ごほうび」を得たい

管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.10.20

 今日の聖書も、ついこの間聞いた話に似ています。もっとも以前は弟子たちが「誰が一番偉いか」と、激論を交わしていたことを恥ずかしく思い、イエスさまに何を話していたの?と聞かれて黙ってしまう姿が描かれていますが、今回はなんと「あの世では、わたしたち兄弟に、他の誰よりも高い地位をください」と、露骨にお願いしています。イエスさまがのけぞっている(あるいはガッカリ?)姿が目に浮かびます。でもイエスさまは親切にも「確かにあなたがたも、これからおきる十字架の出来事により、たいへんな苦難の道を歩くことになるだろう。その覚悟をあなたがたがしようとしているのはわかる。しかしそれと引き換えに、ごほうびが欲しいと言うのか。他者の上に君臨する、これがわたしと一緒に過ごした挙句のご褒美の中身なのか?それを保証すれば、わたしに従えると言うのか?」と諭しています。

 ところで、「キリスト教に入ると、どんなご利益があるのですか」と聞いてくる人がいますが、ヤコブとヨハネのこの提案を思い出してしまいます。もちろんこの質問には、いろんな答え方があるでしょう。永遠の時の中で、この小さな「私」を、唯一無二の存在として、尊び慈しむ存在がいると信じることは、なんと素晴らしいことかと思います。それは、どんな時も最後まで私の「味方」として、生涯を一緒に歩き通してくださり、そしてどんなふうになっても見捨てない神が、最後には「骨を拾って」下さるからです。また「幸せな人生」についても明確です。それは、人それぞれに与えられた使命を全うすることであり、自分の使命と出会っている人は、他者と比較して卑屈になったり、他を羨んだりする必要がないことを心の底から信じ、進むことができるからです。

 イエスさまの教えは、ギブ&テイクではなく、徹底したギブ&ギブですが、それはものを剥ぎ取られるといった物理的な話ではなく、徹底して人々に仕えることであり、その視点の先には神さまの存在があります。たとえ評価されなくても、皆から理解や賞賛を得られなくても、ご褒美がなくても、ちゃんと神さまが見守っておられることに信頼し、生きるべき人生をひたすら生きていく。そのお手本がイエスさまの生涯であり、イエスさまの答えなのではないかと思います。

ひとりじめの罪 

管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.10.13


   今日の福音書に登場し、がっかりして去っていくこの人は、たぶん「いい人」なのだと思います。イエスさまに教えを乞うため、走り寄りひざまずいて尋ねていますから、イエスさまへの敬意も、「教えていただきたい」という謙虚な気持ちもあるのでしょう。しかも十戒は、「こどもの頃から守ってきました」とキッパリ答えるほど、恵まれた家庭環境に育ったようです。ところがこの人にとって、イエスさまの教えは、絶望的なものでした。「持ち物を貧しい人と分かち合いなさい」この人は、貧しくはなかったが、何らかの理由で分かち合いたくなかった、あるいはできなかったからです。

    わたしたちが指定献金をしようとか、被災地を支えようと思うのは、このイエスさまの教えとも関係があると思いますが、外見では判断できないけれども、もし心の中で「余ったから」「かわいそうだから」という気持ちで何かを差し出していたら、真に分かち合ったことにはならない、と言われているのではないでしょうか。

 一方、ここで言う「財産」は、お金や不動産とは限りません。食事ができること、水が飲めること、身体が動くこと、言葉が話せること、文字を読んで理解できること、医療機関にアクセスできること等々、その他ありとあらゆる、わたしたちが「当たり前」と思っている恵みがたくさんあります。しかしそれらに不足している人々と「分かち合う」のは難しい。その方法がわからないと、ついそのままになってしまいます。あるいは、自分の問題ではない、行政がなんとかすべき、と言う人もいるでしょう。

 ところで、金持ちが神の国に入るより「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」というイエスさまの言葉に、弟子たちは驚いています。イエスさまと一緒に過ごしていても、「金持ちは神の国に近い」と思っているようです。しかし、金持ちという存在が敵なのではなく、どうも財産があると、「自分のものだから、分かち合うと減ってしまう」と思いやすい。もっと大切な恵みを見失う危険を心配されているのだと思います。

 神さまからの一時的な預かりものに過ぎない恵みを「所有」している、「獲得」したと勘違いし、本末転倒となる的外れを指摘されているのでしょう。

 分かち合い、それは大それたこととは限りません。気がつかれなくても、見返りは期待できなくても、心からの笑顔、小さな思いやり、困った人のための祈りなど、思いつくことから始めていきましょう。

誰も軽んじられてはならない

管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.10.6

 聖書の時代、たくさんの人々にとって今で言う「人権」の意識がかなり異なっていました。たとえばこども。労働力もあてにできない半人前ですから敬意を払う必要はなく、どんな気持ちでいるかなど、聞く価値はないとされていました。女性もまた一部の例外を除いては、父親か夫に所属する以外考えられない存在だったので、考えや意見を聞かれたり、たとえ当事者であっても証言や訴訟をしたりする権利はなく、また一般的には財産分与の対象にもなりませんでした。こどもにしても女性にしても、あるいは奴隷階層も彼らが属している「管理者」の一存により、人生が振り回されても仕方がない、というのが一般常識だったわけです。

 一方、「天地創造の初めから、神は人を男と女にお造りになった」というイエスさまの理解は、創世記そのものよりさらに踏み込んでいます。家父長制を存続させるため「家」の一部となっていくことが婚姻ではなく、自分の家族から分かれ、1つの独立共同体を形成する、という考えは、当時の家族制度そのものを崩壊しかねないメッセージだったかもしれません。
 この創世記の箇所は結婚式でも読まれますが、「神さまは男と女の2種類の人間しか造らなかった」と伝えるのが目的ではないと思います。たとえ当時の人々が、常識や慣習を絶対化しても、神さまは全く別の視点から、人間という存在を誰一人軽んじることなく受け止めておられる、それがイエスさまの一番伝えたいメッセージではないか、と思うのです。

 そして、創世記の原文を読むと、以下のことがわかります。

「彼に合う助ける者」(18節)は、あたかも「アシスタント」のように長い間訳されてきましたが、補助者という意味ではなく、旧約聖書の中では、半分以上が神さまの形容詞として使われる言葉です。パートナーとなる人と出会ったとき、そこに神の力が働いて、他の人とでは見出せない自分と出会いこの人以外は誰も「助ける」ことができない、ということかもしれません。「あばら骨の一部」(21節)は、あばら骨一本をポンと取ったのではなく、あばら全体を真っ二つに分けたその片方、と書いてあります。少し奇妙な表現ですが、元々1つであったものを2つに分離させると、初めて他者との関係の中で自分を見出す、ということかもしれません。

力を帯びることの危険性

管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.9.29


 お弟子さんたちが「イエスさまのお名前を使っているけしからん団体がいましたので、勝手に使うなと禁じておきました!」と意気揚々と報告すると、必ずしも一緒に行動しないからと言って、敵対視するのは やめなさい、とイエスさまから言われてしまいます。でも、お弟子たちは良いことをしたと確信し、褒められることを期待して報告したのかもしれません。

 ところが、誉められるどころか「小さな者のひとり」をつまずかせるようなことがあれば、「石臼を首に括られ海に投げ込まれる」方がまし、などと言われてしまいます。しかしながら、ウッカリ他者をつまずかせた人は誰でも彼でも、海に投げ込まれてしまえと言っているのではなく、イエスさまの力点としては「小さい者をつまずかせる」ところにあるのではないかと思います。つまり、力の差を利用した「いじめ」に近い行為について、海に投げ込む話や、手足や眼の話が登場するのではないかと思うのです。

 でも、イエスさまご自身の社会的地位が、どうであったかは簡単には言えないでしょう。貧しい人に寄り添ってくださることを知っている人々からは、絶大な信頼があったでしょうが、当時の支配者階級や指導者たちからは排除されていたでしょう。そのイエスさまと行動を共にしているお弟子さんたちですから、支配者や指導者層に対して、もし彼らが「禁じておいた」なら、海に投げ込まれる話は登場しなかったかもしれません。しかしもし、お弟子たちが「イエスさまの名前を使う」ことを禁じさせても、被害をこうむることのない相手を選んでこの態度を取っていたとしたら、それは自分が優位にあることを知った上での確信犯であって、場合によってはいじめに発展する可能性のあることを、イエスさまは心配したのではないかと思います。

 一人では何もしかけてこないのに、団体になった途端に吠え出すという行動は、自己保身を確保した上での、あまり誇れない行動ではないでしょうか。ことに相手が弱い立場にある人の場合、わたしたちはますます気をつける必要があります。それはその人の尊厳を守る目的もあるでしょうが、むしろわたしたち自身が、この世の権力や力関係に紛れてしまわないよう、気をつけるためでもあるのだと思います。

怖くて聞けない

管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.9.22


 皆さんもご存じのとおり、イエスさまのお弟子さんたちは、とても崇高な方々だったかというと、実はそうでもなく、聖書の中では、なかなかの情けない姿や行動を描かれてしまっています。今日の聖書でもイエスさまの語られた内容がなんだか怖く、聞きたくない知りたくないという気持ちが先行してしまった弟子たちの様子が描かれます。そして「よくわからなかったのですが」とは言わず、なんとなく聞き流してしまいました。続いて、歩きながらお弟子たちの中で何かを熱心に議論していた様子をイエスさまが知りました。何を話していたのか聞いたところ、「この中で誰が一番偉いのか」ということで熱くなっていたので、恥ずかしくなり黙ってしまった。そうするとイエスさまは幼子を抱き上げてこの幼児のような者を受け入れるのは、神さまを受け入れることになると語ります。お弟子さんたちにとっては、さらに???だったかもしれません。

 当時は、幼児や子どもに人格があるとは考えられておらず、子どもに神さまが理解できるはずはない、そして神さまも子どもなど視界に入っていない、というような人間観がありました。かつては「女 子供」といった表現が日本にもあったように、社会の中で「一人前ではない」人々を作り出し、彼らの考えや意見など聞くに値しない、としていた価値観に似ています。

 自分は一目置かれるに相応しい人間だと思われなかったらどうしようという不安や、イエスさまのお役に立ち、一目置かれたいという焦りが、やがて「誰が一番偉いのか」という、お弟子さんたちの中での議論になってしまったのかもしれません。

 でもイエスさまは、誰が一番偉いかではなく、何かができるからではなく、どう役に立つかでもなく、どんな立派な過去があるかでもなく、徹底して「今、人を愛する」ことに生涯をかけられました。それは、何かができたり社会に貢献したりすることを「どうでもいい」と思っておられるからではなく、神さまの無条件の愛がどんなものであるか、をなんとかして伝えようとされたからです。今日の特祷に「あなたのみ心の思いを喜んで成し遂げることができますように」と祈ります。一番大事な「成し遂げる」ことの中身は、まず神さまの愛に信頼することではないでしょうか。

祈りとは自分を変える覚悟

管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.9.15

 昔、「エクソシスト」という映画がありました。少女に取り憑いた悪霊が悪さをし、家族も親戚も近所の人々も困り切って、司祭を呼びます。ところがその悪霊は、少女の身体から自分を追い出そうとする司祭の、精神的な弱みを握っていました。過去の思い出したくない傷に触れたり、どうしたらいいのか答えの出ない微妙な問題を突きつけたり、はたまた、亡くなった母親の声音まで持ち出して、なんとかして司祭の祈りをやめさせようとします。この悪霊の目的は、自分を追い出すのは無理だとあきらめさせ、これまで通り、少女の身体に安住することだったのでしょう。

 今回の福音書に登場する息子の描写は、てんかんの症状のようにも見えます。父親は、息子の状態について大変心を痛めており、息子のために一生懸命なんとかしてやりたいと願っているのは本当でしょう。しかしこの父親の言動の端々から、「自分には問題がないが、問題を抱えている息子をなんとか“治して”ほしい、もしあなた(イエス)にそのような力があれば」という心中が感じられます。つまり、父親自身は変わる必要はない、しかし息子を変えてくれれば問題がなくなる、という気持ちです。

 しかし、イエスさまとのやりとりの中で、変わる必要があったのは息子ではなく、父親本人でした。居心地の良い慣れ親しんだ自分自身に留まったまま、「あなたがなんとかしてください」とイエスさまにお願いしている姿勢を指摘され、この人は叫びます。「信仰のないわたしをお助けください」

 お祈りはマジックでも超現象でもなく、また、イエスさまだけが持っている超能力でもありません。わたしたちが祈るとき、「どうか神さま、必要ならばわたしを変えてください」という覚悟が必要な気がするのです。厳しい言い方かもしれませんが、そうでないと、「祈る」というよりは、望む結果のため、自分の言うことを聴くよう神に要求している、という行為が「祈り」にすり替わってしまう危険があると思います。それを避けるために必要なのは、神さまに対する絶対的服従ではなく、信頼です。わたしたち一人一人の幸い以外、何も望んでおられない慈しみと愛の神を、真に信頼して祈る祈りは、変えられないものを変えていく、そんな力が秘められていると信じます。
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