管理司祭 ロイス上田亜樹子
2025.11.2
ルカによる福音書19:1-10
「本当に心がホッとしました」という意味で、「救われました」と言うことがあります。それは、通常の生活の中でも使う言葉かもしれませんが、ではどういう意味で「救われた」と表現するのでしょうか。今日はザアカイという人の話からそのことを考えてみたいと思います。この物語は、「救われた」本質を語るものであり、わたしたちもまた、実は「小さなザアカイ」が存在するのではないか、そんな気持ちになる話です。
ザーカイは徴税人でしたから、とりあえず食うに困らない暮らしをしていました。農業のように天候や不作に左右されることもなく、家畜の流行病とも無関係で、ローマ帝国の支配が続く限りは、当面は職を失う心配のない、ローマ帝国のために「税金を集める」職業です。
しかしザーカイは、秀でた才能やスキルがあったわけではなく、そもそも尊敬される職種ではなく、そして人々からは「罪深い男」と呼ばれていた。それは同胞であるにもかかわらず、人々の暮らしを圧迫する「ローマ帝国側の人間」という烙印を押されていたからです。生活は安定し、仕事を失う不安もないけれど、他に何も誇るものがないという現実。そんな自分の虚しさと、この先どうつきあったらいいのか途方に暮れつつ、日々苦しんでいました。
ところがザアカイは、「イエスという人が町に来る」ことを聞きつけます。胸の中がなんだかざわざわします。自分から話しかける勇気は到底なく、せめてどんな人か見てみようと思ったザアカイが、登った桑の木の下を一行が通り過ぎようとしたその時、イエスさまは顔を上げてザアカイの名前を呼び、あなたの家に泊めてほしいと頼みます。
ザアカイは、もう何が何だかわかりませんでした。「罪深い」自分が声をかけられるなんて、夢にも思いませんでした。自分と口を聞き、泊まりに行き、おそらくご飯まで一緒に食べるようになるなんて、信じられない思いだったのです。
ザアカイにとってイエスさまとの出会いは、宇宙がひっくり返るような出来事に感じたのでしょう、気がついたらスルスルと桑の木を降り、イエスさまとお話ししていました。その一連の出来事を通じてザアカイが知ったことは、「こんな生活をしている自分も、愛されて良いのだ」ということでした。それまでザアカイは、イエスさまとの出逢いにより、自分もまた神さまから愛され、神さまの大切なこどもであることを思い出したのです。
自分を愛することを取り戻すと、自分の周りの風景が見え始めます。ザアカイもまた、自分の周りに生きる人々も、神さまが愛されている大切な人であることを認識して行きます。


