聖書のメッセージ
不安に埋もれないために
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.11.17
マルコによる福音書 第 13 章 14-23 節
人を動かす大きな要因として、不安という要素があると思います。最悪のシナリオを突きつけて、こうなってしまったらお終いだと思わせる。あるいは、あまり根拠はないけれど「きっとそうはならないよ」とささやき、考えるのを辞めさせる。巷に溢れる「広告」の中にも、なんとかして人々の目に止まり、不安を煽ることで、つい買い物をしそうに仕向けるメッセージが目につきます。
聖書の時代はテレビもネットもなかったけれど、いろいろな偽の情報は横行し、自称「メシア」や、自称「預言者」があらわれたようです。彼らが必ずしも不安を煽る目的ではなかったにせよ、人々が思わず「そうかもしれない」と信じそうになるくらい本物らしく振る舞う、というのはよくある話なのでしょう。
聖書の冒頭に出てくる「破壊者」は、特定の個人というよりは、キリスト教徒への憎しみの連鎖や迫害、圧政を強いる支配者層などを指しているのかもしれませんが、一方で、その後語られる、建物の一階よりは屋上に留まるよう勧める話や、独身女性や寡より当時の社会的地位が安定していた妊婦やこども連れが「不利になる」話を聞くと、津波や土砂崩れといった自然の破壊力も想い浮かべます。
生きている限り不安は常にあるので、それらを消し去ることはできません。しかし、人の目が必要以上に気になり、噂に振り回され、何が大切なことで、何がそれほどでもないことかわからなくなるような、不安を軸に振り回され続ける人生から、自由になることを、イエスさまは望んでおられるのではないかと思うのです。潰されるよりは、魂や心身が抹殺されるよりは、ひとまず「山にのがれ」自分を守ることを躊躇するな、と言ってくださっている。それは、不安に巻き込まれそうになっても、何が大切なのかわからなくなっても、真理であるイエスさまに、まず心の中心に居ていただくことで、わたしたちは右往左往した心の状態から解放され、すぐにではないにしても、少しずつ霧が晴れるように、何を一番大切にしていきたいのか、見えるようになる、そう言っておられるのではないでしょうか。
もちあげられたい人々
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.11.10
マルコによる福音書 第 12 章 38〜44 節
保育園のこどもたちは、振りむきながら「見て見て〜」とよく叫びます。得意なことや、うまくいきそうなことを、誰かに気がついて欲しい、うれしいことを分かち合いたい、そんな気持ちなのでしょう。「喜びを分かち合ってほしい」という呼びかけは、そこへ招かれた人をも幸せな気持ちにします。しかし大人になっても、それを少し歪んだかたちでやらなければ気が済まない人々がいます。この場合、彼らの目的は、喜びを分かち合うことではなく、力関係で上位にいることを誇示し、思い知らせることです。
長い衣は肉体労働には適しませんから、「高級な」仕事をしているという看板を背負っているようなもの。広場で挨拶されることは有名な学者である証拠だと思っているし、宴会でどうぞどうぞと上座を薦められなければ機嫌が悪くなる。こういう人々は、一時的に神さまから預かった特権ないし権力を、(上から目線で投げ与えることはあっても)必要としている人々と分かち合おうとはしません。力のない立場の筆頭である「やもめ」を「食い物に」(=利用してお金を取り上げる)し、中身もなくダラダラと祈ってみせると「さすが〇〇先生」と皆が感心すると思っている。ふつうに考えても、ただの“痛い人”ですが、困ったことに、権力だけは握っている。そして、社会的立場の弱い人々を抑圧することで、「見て見て〜」行動をしている律法学者たちを、イエスさまは人一倍厳しい裁きを受けると断言されます。
もっともイエスさまは、このような人々は「厳しい裁き」がやってきて仕返しを受けるから安心してほしいと言っているのではなく、人は少しでも力を帯びた途端に、この律法学者のように振る舞いがちであることを、弟子たちに警告しているのではないかと思います。
わたしたちの毎日の生活の中でも、身近に存在する体験かもしれません。そして残念ながら、こういう振る舞いの中にも、こういう視線の先にも、神さまの愛は存在せず、慈しみや希望もありません。自分には僅かでも力があるから、神さまはいなくてもやっていける。力を上手に使いながら、自分さえ良ければよい。そんなふうになってはいけない。諦めてはいけないと、イエスさまは心配そうにわたしたちを見つめておられます。
ひらかれている「神の国」
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.11.3
マルコによる福音書 第 12 章 28〜34 節
「彼らの議論」という言葉でいきなり始まるのは、その前にファリサイ派やヘロデ党の人々、そしてサドカイ派の人まで出てきて、入れ替わり立ち替わり、イエスさまに質問をした場面がその直前にあるからです。はたして、この物語のようにまとまった時間の中で質問攻めにあったかどうかはわかりません。でも日頃から、イエスさまの言うことに居心地のわるさを感じていたであろう、ユダヤ教内のさまざまなグループの指導者たちの主張をまとめ、一括してひとつのお話にした可能性もあると思います。その流れのしめくくりが今日の福音書です。
ところでこの律法学者は「掟」と言っていますが、ユダヤ教の人々にとって最も中心的な掟は、いわゆる「十戒」です。旧約聖書の申命記(5章6節〜)と、出エジプト記(20章)に登場します。しかしイエスさまが、第一の掟として答えられた「神を愛する」話は、申命記(6章4節以下)に、そして第二の掟として「隣人を愛する」話は、レビ記(19章18節)にあります。つまり、わたしたちが当たり前に聞いている「神さまと人を愛する事が最優先」という教えは、十戒のようにまとまって成文化されたものがあるわけではなく、出エジプト記と申命記とレビ記に分散されたメッセージを、イエスさまが再編成したものとも言えるのでしょう。
それだけに、この律法学者の「神と人を愛することは供え物をするより大事です」という発言は、かなり画期的なことだったかもしれません。その学者が、自説やあるいは派閥の現状維持を第一としていたなら、このようには言わなかったでしょう。この人は支配者層であったにもかかわらず、それまでの神学以外は拒絶するという立場ではなく、真摯に神さまの前に立ち、限界や弱さを持った人間として、イエスさまに聞きます。「どうしたらもっと神さまのみ旨に添うことができるでしょうか」と。
「神と人とを愛する」ことは最上の捧げものであり、神さまがもっとも喜ばれることの一つであると、わたしたちは知っています。そして、この世的なかたちはどうであれ、このようなイエスさまの教えを受け入れ、従って生きようとする人は誰でも、「神の国」に近いのではないでしょうか。
「何をしてほしいのか」
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.10.27
わたしたちはふだん、何と祈っているでしょうか。ひょっとしたら、困ったこと、嫌なこと、痛みを覚えることを、とにかく「どけてください」とのみ祈っていないかと不安になります。もしわたしたちが、イエスさまから「何をしてほしいのか」と聞かれても、どうなりたいかはともかく、今、困っていることを取り除いてください、それが神たるあなたの役目ではないか、と祈っているつもりになっていたら、そして、どうなりたいかについては、今はそれどころじゃないと思っていたら、それは何かが足りない祈りかもしれないと思うのです。
もちろんそれでもイエスさまは、耳を傾けてくださるとは思います。わたしたちが、何をどう願ったらよいかわからず、手当たり次第、文句や苦情や愚痴を言っていても、やがてそれらが整理され、わたしたちが道に立ち返り、確かに仰ぎ見るべき望みへと至るまで、諦めることなく、付き合ってくださることは、ちがいないですが、そこまででいいのでしょうかと疑問に思います。
その点、今日の物語に登場する男性は直球です。最初から「イエスよ、エレイソン(私を憐れめ)」と叫び続ける。お弟子さんたちは、ちょっと困ったにちがいないし、できればこの人に黙ってもらって、予定どおりの旅程をこなしたい、会うべき人に会って、早く落ち着きたい、そんな気持ちでいたにちがいないですが、イエスさまは彼を呼ぶように頼みます。
イエスさまの問いに対してこの人は、迷うことなく「目が見えるようになりたい」と答え、イエスの旅に加わったとあります。この人にとって、目が見えるようになることは、自由の獲得でした。またそれは、人々の輪から除外され、やっかい者として生きていくのではなく、自分も神さまから愛され大切にされているひとりである、という証拠でした。もはやこの人にとって、医学的に視力を取り戻したかどうかは問題ではなく、一人の人間として初めて尊重され、生きている苦痛が喜びに変わっていく瞬間でした。目が見えるようになるなら本気で祈ろう、ではなく、この人の場合は、イエスさまへの信頼がこの行動へと歩みを起こしました。望みが実現されることが「真の祈り」である証拠にはなりませんが、わたしたちもまた、本当の望みは何なのか、真剣に自ら問う必要はありそうです。
「ごほうび」を得たい
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.10.20
今日の聖書も、ついこの間聞いた話に似ています。もっとも以前は弟子たちが「誰が一番偉いか」と、激論を交わしていたことを恥ずかしく思い、イエスさまに何を話していたの?と聞かれて黙ってしまう姿が描かれていますが、今回はなんと「あの世では、わたしたち兄弟に、他の誰よりも高い地位をください」と、露骨にお願いしています。イエスさまがのけぞっている(あるいはガッカリ?)姿が目に浮かびます。でもイエスさまは親切にも「確かにあなたがたも、これからおきる十字架の出来事により、たいへんな苦難の道を歩くことになるだろう。その覚悟をあなたがたがしようとしているのはわかる。しかしそれと引き換えに、ごほうびが欲しいと言うのか。他者の上に君臨する、これがわたしと一緒に過ごした挙句のご褒美の中身なのか?それを保証すれば、わたしに従えると言うのか?」と諭しています。
ところで、「キリスト教に入ると、どんなご利益があるのですか」と聞いてくる人がいますが、ヤコブとヨハネのこの提案を思い出してしまいます。もちろんこの質問には、いろんな答え方があるでしょう。永遠の時の中で、この小さな「私」を、唯一無二の存在として、尊び慈しむ存在がいると信じることは、なんと素晴らしいことかと思います。それは、どんな時も最後まで私の「味方」として、生涯を一緒に歩き通してくださり、そしてどんなふうになっても見捨てない神が、最後には「骨を拾って」下さるからです。また「幸せな人生」についても明確です。それは、人それぞれに与えられた使命を全うすることであり、自分の使命と出会っている人は、他者と比較して卑屈になったり、他を羨んだりする必要がないことを心の底から信じ、進むことができるからです。
イエスさまの教えは、ギブ&テイクではなく、徹底したギブ&ギブですが、それはものを剥ぎ取られるといった物理的な話ではなく、徹底して人々に仕えることであり、その視点の先には神さまの存在があります。たとえ評価されなくても、皆から理解や賞賛を得られなくても、ご褒美がなくても、ちゃんと神さまが見守っておられることに信頼し、生きるべき人生をひたすら生きていく。そのお手本がイエスさまの生涯であり、イエスさまの答えなのではないかと思います。
ひとりじめの罪
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.10.13
今日の福音書に登場し、がっかりして去っていくこの人は、たぶん「いい人」なのだと思います。イエスさまに教えを乞うため、走り寄りひざまずいて尋ねていますから、イエスさまへの敬意も、「教えていただきたい」という謙虚な気持ちもあるのでしょう。しかも十戒は、「こどもの頃から守ってきました」とキッパリ答えるほど、恵まれた家庭環境に育ったようです。ところがこの人にとって、イエスさまの教えは、絶望的なものでした。「持ち物を貧しい人と分かち合いなさい」この人は、貧しくはなかったが、何らかの理由で分かち合いたくなかった、あるいはできなかったからです。
わたしたちが指定献金をしようとか、被災地を支えようと思うのは、このイエスさまの教えとも関係があると思いますが、外見では判断できないけれども、もし心の中で「余ったから」「かわいそうだから」という気持ちで何かを差し出していたら、真に分かち合ったことにはならない、と言われているのではないでしょうか。
一方、ここで言う「財産」は、お金や不動産とは限りません。食事ができること、水が飲めること、身体が動くこと、言葉が話せること、文字を読んで理解できること、医療機関にアクセスできること等々、その他ありとあらゆる、わたしたちが「当たり前」と思っている恵みがたくさんあります。しかしそれらに不足している人々と「分かち合う」のは難しい。その方法がわからないと、ついそのままになってしまいます。あるいは、自分の問題ではない、行政がなんとかすべき、と言う人もいるでしょう。
ところで、金持ちが神の国に入るより「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」というイエスさまの言葉に、弟子たちは驚いています。イエスさまと一緒に過ごしていても、「金持ちは神の国に近い」と思っているようです。しかし、金持ちという存在が敵なのではなく、どうも財産があると、「自分のものだから、分かち合うと減ってしまう」と思いやすい。もっと大切な恵みを見失う危険を心配されているのだと思います。
神さまからの一時的な預かりものに過ぎない恵みを「所有」している、「獲得」したと勘違いし、本末転倒となる的外れを指摘されているのでしょう。
分かち合い、それは大それたこととは限りません。気がつかれなくても、見返りは期待できなくても、心からの笑顔、小さな思いやり、困った人のための祈りなど、思いつくことから始めていきましょう。
誰も軽んじられてはならない
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.10.6
聖書の時代、たくさんの人々にとって今で言う「人権」の意識がかなり異なっていました。たとえばこども。労働力もあてにできない半人前ですから敬意を払う必要はなく、どんな気持ちでいるかなど、聞く価値はないとされていました。女性もまた一部の例外を除いては、父親か夫に所属する以外考えられない存在だったので、考えや意見を聞かれたり、たとえ当事者であっても証言や訴訟をしたりする権利はなく、また一般的には財産分与の対象にもなりませんでした。こどもにしても女性にしても、あるいは奴隷階層も彼らが属している「管理者」の一存により、人生が振り回されても仕方がない、というのが一般常識だったわけです。
一方、「天地創造の初めから、神は人を男と女にお造りになった」というイエスさまの理解は、創世記そのものよりさらに踏み込んでいます。家父長制を存続させるため「家」の一部となっていくことが婚姻ではなく、自分の家族から分かれ、1つの独立共同体を形成する、という考えは、当時の家族制度そのものを崩壊しかねないメッセージだったかもしれません。
この創世記の箇所は結婚式でも読まれますが、「神さまは男と女の2種類の人間しか造らなかった」と伝えるのが目的ではないと思います。たとえ当時の人々が、常識や慣習を絶対化しても、神さまは全く別の視点から、人間という存在を誰一人軽んじることなく受け止めておられる、それがイエスさまの一番伝えたいメッセージではないか、と思うのです。
そして、創世記の原文を読むと、以下のことがわかります。
「彼に合う助ける者」(18節)は、あたかも「アシスタント」のように長い間訳されてきましたが、補助者という意味ではなく、旧約聖書の中では、半分以上が神さまの形容詞として使われる言葉です。パートナーとなる人と出会ったとき、そこに神の力が働いて、他の人とでは見出せない自分と出会いこの人以外は誰も「助ける」ことができない、ということかもしれません。「あばら骨の一部」(21節)は、あばら骨一本をポンと取ったのではなく、あばら全体を真っ二つに分けたその片方、と書いてあります。少し奇妙な表現ですが、元々1つであったものを2つに分離させると、初めて他者との関係の中で自分を見出す、ということかもしれません。
力を帯びることの危険性
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.9.29
お弟子さんたちが「イエスさまのお名前を使っているけしからん団体がいましたので、勝手に使うなと禁じておきました!」と意気揚々と報告すると、必ずしも一緒に行動しないからと言って、敵対視するのは やめなさい、とイエスさまから言われてしまいます。でも、お弟子たちは良いことをしたと確信し、褒められることを期待して報告したのかもしれません。
ところが、誉められるどころか「小さな者のひとり」をつまずかせるようなことがあれば、「石臼を首に括られ海に投げ込まれる」方がまし、などと言われてしまいます。しかしながら、ウッカリ他者をつまずかせた人は誰でも彼でも、海に投げ込まれてしまえと言っているのではなく、イエスさまの力点としては「小さい者をつまずかせる」ところにあるのではないかと思います。つまり、力の差を利用した「いじめ」に近い行為について、海に投げ込む話や、手足や眼の話が登場するのではないかと思うのです。
でも、イエスさまご自身の社会的地位が、どうであったかは簡単には言えないでしょう。貧しい人に寄り添ってくださることを知っている人々からは、絶大な信頼があったでしょうが、当時の支配者階級や指導者たちからは排除されていたでしょう。そのイエスさまと行動を共にしているお弟子さんたちですから、支配者や指導者層に対して、もし彼らが「禁じておいた」なら、海に投げ込まれる話は登場しなかったかもしれません。しかしもし、お弟子たちが「イエスさまの名前を使う」ことを禁じさせても、被害をこうむることのない相手を選んでこの態度を取っていたとしたら、それは自分が優位にあることを知った上での確信犯であって、場合によってはいじめに発展する可能性のあることを、イエスさまは心配したのではないかと思います。
一人では何もしかけてこないのに、団体になった途端に吠え出すという行動は、自己保身を確保した上での、あまり誇れない行動ではないでしょうか。ことに相手が弱い立場にある人の場合、わたしたちはますます気をつける必要があります。それはその人の尊厳を守る目的もあるでしょうが、むしろわたしたち自身が、この世の権力や力関係に紛れてしまわないよう、気をつけるためでもあるのだと思います。
怖くて聞けない
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.9.22
皆さんもご存じのとおり、イエスさまのお弟子さんたちは、とても崇高な方々だったかというと、実はそうでもなく、聖書の中では、なかなかの情けない姿や行動を描かれてしまっています。今日の聖書でもイエスさまの語られた内容がなんだか怖く、聞きたくない知りたくないという気持ちが先行してしまった弟子たちの様子が描かれます。そして「よくわからなかったのですが」とは言わず、なんとなく聞き流してしまいました。続いて、歩きながらお弟子たちの中で何かを熱心に議論していた様子をイエスさまが知りました。何を話していたのか聞いたところ、「この中で誰が一番偉いのか」ということで熱くなっていたので、恥ずかしくなり黙ってしまった。そうするとイエスさまは幼子を抱き上げてこの幼児のような者を受け入れるのは、神さまを受け入れることになると語ります。お弟子さんたちにとっては、さらに???だったかもしれません。
当時は、幼児や子どもに人格があるとは考えられておらず、子どもに神さまが理解できるはずはない、そして神さまも子どもなど視界に入っていない、というような人間観がありました。かつては「女 子供」といった表現が日本にもあったように、社会の中で「一人前ではない」人々を作り出し、彼らの考えや意見など聞くに値しない、としていた価値観に似ています。
自分は一目置かれるに相応しい人間だと思われなかったらどうしようという不安や、イエスさまのお役に立ち、一目置かれたいという焦りが、やがて「誰が一番偉いのか」という、お弟子さんたちの中での議論になってしまったのかもしれません。
でもイエスさまは、誰が一番偉いかではなく、何かができるからではなく、どう役に立つかでもなく、どんな立派な過去があるかでもなく、徹底して「今、人を愛する」ことに生涯をかけられました。それは、何かができたり社会に貢献したりすることを「どうでもいい」と思っておられるからではなく、神さまの無条件の愛がどんなものであるか、をなんとかして伝えようとされたからです。今日の特祷に「あなたのみ心の思いを喜んで成し遂げることができますように」と祈ります。一番大事な「成し遂げる」ことの中身は、まず神さまの愛に信頼することではないでしょうか。
祈りとは自分を変える覚悟
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.9.15
昔、「エクソシスト」という映画がありました。少女に取り憑いた悪霊が悪さをし、家族も親戚も近所の人々も困り切って、司祭を呼びます。ところがその悪霊は、少女の身体から自分を追い出そうとする司祭の、精神的な弱みを握っていました。過去の思い出したくない傷に触れたり、どうしたらいいのか答えの出ない微妙な問題を突きつけたり、はたまた、亡くなった母親の声音まで持ち出して、なんとかして司祭の祈りをやめさせようとします。この悪霊の目的は、自分を追い出すのは無理だとあきらめさせ、これまで通り、少女の身体に安住することだったのでしょう。
今回の福音書に登場する息子の描写は、てんかんの症状のようにも見えます。父親は、息子の状態について大変心を痛めており、息子のために一生懸命なんとかしてやりたいと願っているのは本当でしょう。しかしこの父親の言動の端々から、「自分には問題がないが、問題を抱えている息子をなんとか“治して”ほしい、もしあなた(イエス)にそのような力があれば」という心中が感じられます。つまり、父親自身は変わる必要はない、しかし息子を変えてくれれば問題がなくなる、という気持ちです。
しかし、イエスさまとのやりとりの中で、変わる必要があったのは息子ではなく、父親本人でした。居心地の良い慣れ親しんだ自分自身に留まったまま、「あなたがなんとかしてください」とイエスさまにお願いしている姿勢を指摘され、この人は叫びます。「信仰のないわたしをお助けください」
お祈りはマジックでも超現象でもなく、また、イエスさまだけが持っている超能力でもありません。わたしたちが祈るとき、「どうか神さま、必要ならばわたしを変えてください」という覚悟が必要な気がするのです。厳しい言い方かもしれませんが、そうでないと、「祈る」というよりは、望む結果のため、自分の言うことを聴くよう神に要求している、という行為が「祈り」にすり替わってしまう危険があると思います。それを避けるために必要なのは、神さまに対する絶対的服従ではなく、信頼です。わたしたち一人一人の幸い以外、何も望んでおられない慈しみと愛の神を、真に信頼して祈る祈りは、変えられないものを変えていく、そんな力が秘められていると信じます。
期待を超えて働く神
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.8.25
「実に酷い話だ」(「酷い話」とは、先週の福音書の箇所で、イエスさまの 肉と血をいただくことで、イエスさまと共に生きることになるという話) と、多くの弟子たちが口に出して言っただけではなく、仲間うちでぼやき合 い、多くがイエスさまを離れていった、そして、もはや共に歩むことはなかったと、今日の福音書は記します。肉や血を持ち出しただけで、イエスさまと決別するなんてと、「肉と血とは聖餐式のこと」とハナから知っているわ たしたちにとっては、この離別はむしろ疑問ですが、当時のユダヤ教の価値 観からすると、「血を飲む」などという表現は、到底ゆるし難いことだった のでしょう。
多くの弟子たちが離れ去ったあと、残った 12 人も去りたいかどうかとイエスさまは聞きます。のちに“鶏が鳴く前”にイエスさまを知らないと口走ったシモン・ペテロが代表して「そんなことはしない、なぜならイエスさまは神の聖者であると知っているし信じている」と答えます。この時、彼はどういうつもりで言ったのか聖書は記しておらず、勝手な想像に過ぎませんが、そんなに深く熟考しての発言だったとは思えません。
人々は、自分が期待することを実現してくれそうだと思い込むと、イエスさまのところに押しかけますが、期待はずれと見ると、「役に立たない」ので、一気に離れていく。そのさまは、まるで現代の人の流れのようでもあります。もちろん世の中には、怪しい宗教も存在しますので、おや?これは変だという違和感を感じたら、離れた方がいい場合もたくさんあると思います。しかし「期待はずれ」の中身が問題です。
自分の思い通りに動いてくれる神、自分に利益をもたらしてくれる神でなければ「期待はずれ」、ということであれば、それは自分の小さな枠の中に神を閉じ込め、ペットのように
飼育しうる神、ということになってしまうのではないでしょうか。
わたしたちが信頼し、生き方について真摯に相談したい神は、あれこれと指示を与える神ではありません。また、わたしたちの想定する範囲内に納まる神でもありません。神の豊かさ広さは、無条件の「愛」ということに尽きるでしょう。そのことだけを見つめて歩みたいと思います。
神さまと共に生きる
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.8.18
聖餐式の中に「近づきの祈り」(祈祷書181ページ)と呼ばれるお祈りがあります。信徒であるなしにかかわらず、「なんともグロテスクな表現、なんとかならないの?」と言われることもしばしば。確かに「キリストの肉を食し、その血を飲み」という表現は唐突過ぎ、キリスト教の外から見たら、一体どういうカルト?と恐怖されるかもしれません。しかし今日の福音書(ヨハネ6:53〜59)では唐突どころか、これでもかというほど繰り返し、肉と血の話をイエスさまはなさいます。
ここまで肉と血について繰り返される理由の一つは、イエスさまの話を聞き議論していたのが、正統的ユダヤ教の指導者であると自負していた人々だったことにもあると思います。彼らにとって人として正しく生き永遠の命を保証されるのは、律法と呼ばれる旧約聖書に書かれた掟を、どれだけきちんと守れるかにかかっている、と本気で信じていました。皆さんも聞いたことがあるかもしれませんが、「血を食べてはならない」(レビ記17:10〜)と書かれた掟は絶対であり、そのタブー視されている掟に、イエスさまは踏み込んででも伝えたいことがあったのではないでしょうか。
また別の箇所で「死んだ者の(ための)神ではなく、生きている者の神」と言われたように、死んだ後もずっと続く「永遠の命」の保証についてここで語っているのではなく、神と共に「今」を生きること。それは繰り返しご聖体をいただくことによって、「(あなたは)いつもわたしの内におり、わたしもまたいつも(あなたの)内にいる」ことを、ぼやっとではなく、なんとなくでもなく、本当にそうなのだと、わたしたち一人一人が確信し、心に留めてほしいと求めておられるのだと思います。
聖餐式においてイエスさまは、ああよかったとホッとする「儀式」を提供されたのではなく、与えられた時間を十全に生きようとするわたしたちを支えるため、たとえその果実を実感できなくても、必ず最後の瞬間まで、神は共にいてくださることを信じて進み続けてられるよう、また、神が「共に生きておられる」ことを、目に見え、手で触ることのできるかたちとして、聖餐式を残してくださったのではないでしょうか。
聖餐式の意味
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.8.11
わたしが食べたものでわたしの身体はできている、これは某食品メーカーのCMだったと思います(あまり正確ではない)が、聖餐式にも当てはまるかもしれません。イエスさまがわたしたちに与えてくださった、究極のおもてなしである聖餐式ですが、そのようには思えない人にとって、パンはただの薄いウェファースであり、ワインは大して美味しくもない「食品」なのでしょう。それらの吹けば飛ぶような食品を、有難がって受ける集団は、外から見ると異様かもしれません。そしてそれをいわばカルト集団のイメージから、「洗脳」や「鵜呑み」「依存」といったことと結びつけられることがあるのかもしれません。
しかしながら、それは現代に始まったことではありませんでした。イエスさまが天に戻られたのち、直接、イエスさまと聖餐式を分かち合った弟子たちは、ことあるごとに「パンを裂」いていた様子が、使徒言行録にも登場します。ユダヤ教の過越の祭りの一部分のアクション(動作)であったとは言え、パンとワインを食する部分のみを抜き出して特化するこの「おもてなし」は、ユダヤ教内部だけではなく、外から見ても、たかがパンとワインで何をしているのか、何をそんなに大切ぶっているのか、ということだったかもしれません。聖餐式に連なる人々にとって、それはたかがパンとワインではなく、「イエスさまと共にいる」ことを実感する唯一のそして最も深い「方法」だったのだと思います。しかし一方で、聖餐式に「依存」し、パンとワインさえあずかっておれば、あとは何もしなくてよい、という考え方もありますが、わたしたち聖公会では、そのようには教えていません。
イエスさまと共に歩みたい、その生涯にならいたいと願うとき、ありとあらゆる方法で、何とか自分の道をまっすぐしたい、そして自分の弱さや情けなさに直面しても、そばに居ていただきたい、この苦しみをわかっていただきたいと感じます。イエスさまがパンとワインに宿ってわたしたちの胃袋に収まってくださるということではなく、一緒に食卓を囲み、対等の立場で理解してくださろうとする、そのしるしなのだと思います。
まことのパンをいただく
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.8.4
わたしたちの食生活での主食が、ご飯なのかパンなのか、あるいはうどんなのか蕎麦なのか、もはやわけがわからなくなっているところはありますが、食するとは胃袋のためというより、精神的な充足感を求める心と深く結びついているように思います。心身の健康維持のため、昔、医療断食を定期的にしていたことがあるのですが、「何か食べたい」と食卓あたりをうろうろするのは、(私の場合)最初の日だけで、それよりも「食事」という儀式がない長い一日が節目なく続く、そのことの方が、キツかったことを思い出します。
一方、「食べる」ことによってなんとかして身体と心の緊張を解こうとしていることもあるのだと思います。お腹が空いたと感じる前に必要でもない食物を、さらには美味しいとも感じずに、自動的に口に運んでしまう。しかも、気がつくと一袋全部食べてしまっていて、なんとも言えない惨敗感に打ちひしがれる。これは、自分を甘やかしてしまったという後悔もありますが、「疲れただの、苦しいだの言わずに、早く働け」と、カロリーを放り込み、アクセルをふかし続けようとする姿なのではないか、とも思うのです。高価なものを大量に食べても、そこには満たされた心はなく、胃が疲弊するだけという、なんとも寂しい現実です。
そんなわたしたちに、イエスさまは最高の食卓を残してくださいました。疲れ果て消化できない課題が澱のように溜まっているわたしたちの必要を、神さまは覚えてくださっているというメッセージが込められ、心や身体が、どんな状態であってもわたしたちを大切にしたい、受け止めたい、つまりわたしたちの幸いしか求めていない、と語りかけてくださる聖餐式です。神さまはわたしたちがたとえ忘れていても、日々「命のパン」をもって養ってくださり、それを言葉だけではなく、目で見て手で触れることのできるかたちも残して下さった。そのことを覚えながらご聖体を受けて呑み込むとき、わたしたちの心と身体全体は「神さまはわたしと共におられる」という確信が感謝に変わり、今週もう少し頑張ってみようという力を与えられるのではないでしょうか。
<説明:教会の日曜日の礼拝では、「聖餐式」と呼ばれる、信徒の皆さんがパン(と言っても薄いウェファースのようなもの)と、葡萄酒をいただく式を行います。洗礼を受けていない方々には、パンと葡萄酒ではなく、頭に手を置いて祝福のお祈りをさせていただきます。>
見当ちがいの中で迷う
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.7.28
お祈りをしようと座って目を閉じても、なんだか身も心もざわざわして、何を祈ったらよいのか心が定まらないときがあります。何が正しいのかと考えているうちに心が散漫になり、日常の些末な出来事を振り返ってみたりします。時には、未解決の課題をあれこれ持ち出し、過去の自分の失敗を必要もないのに掘り下げて、身動きできなくなったりもします。
今日の福音書(マルコ6:45〜)の、何をしようとしているのかよくわからないお弟子さんたちの行動は、自分自身の祈りを思い出させます。これから日が暮れるというのに、イエスさまを残して湖に舟を漕ぎ出し、逆風の中むやみやたらに漕ぎまくるけれども、結局は立ち往生。そこへ、イエスさまが心配して近づくと幽霊だと怯える。そして「パンの出来事(この直前の物語)を理解せず、心が鈍くなっていた」とあるように、お弟子さんたちは、何をすべきかよくわかっておらず、善意かもしれないが、見当ちがいの行動を一生懸命していた、と聖書は記します。
わたしたちは祈るとき、このような見当ちがいをしているのかもしれないと思うのです。「そうだ!祈ろう」と、にわかに思いついて舟を漕ぎ出し、でもどっちに行ったらいいのか見失う。そして、努力はしないわけではないが気がついたら逆風の中。しかし、どうやってそこから脱すればよいのかもわからない。心配したイエスさまが近づいてきてくださっても、イエスさまだとは認識できず、むしろ怯える。
祈りは、「祈らなければならない」というものではなく、人間に与えられた特権だと思うのです。どの宗教でも祈るという営みはあるし、一方、どんな宗教とも関わりたくないと思っている人でも、困ったときや切羽詰まる状況では、自然と祈ってしまうものだと思います。
見当ちがいの方向に向かい、自分だけでなんとか解決しようと意地を張る、そんな「逆風の中を虚しく漕いでいる」ようなわたしたちのところに、イエスさまはまっすぐに近づき、舟に乗り込んでさえくださる。それは、わたしたちが獲得した能力なのではなく、ひたすら一歩的に与えられる恵みなのでしょう。わたしたちに出来ることは、やって来られるイエスさまを、お迎えすることだけなのだと思います。
聖餐式の奇跡
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.7.21
イエスさまは5千人以上の人々を養った。この物語はすべての福音書に登場しますが、マルコでは、イエスさまのお話を聞こうとついて来ている人々が行き倒れたり、暴動がおこしたりすることを防ごうとするお弟子たちが、気をきかせて解散をすすめている様子からスタートします。
確かに人が生きていくためにはまず衣食住が必要。「心の充足」などむしろ贅沢なことだとする考えもあります。お弟子さんたちの言葉から、「いつもまでも人のお世話ばかりしていられない。実際、おなかがすいている人々の優先課題は、まずパンだろう」と言っているような気もします。
わたしたちが毎週捧げている聖餐式の原型は、いわゆる「最後の晩餐」です。イエスさまがお弟子たちと、ユダヤ教の「過越の祭」としての食事を一緒にされた出来事だったと言われていますが、そこでは、十字架上で犠牲となるイエスさまと、食事のために屠られた羊が重なります。そして、「わたしを記念するため、このように行いなさい」と、イエスさまからわたしたちは言われていますが、具体的にどうすることが「記念する」ことになるのか。その答えが、この物語にあるのではないかと思うのです。
イエスさまは、パンと魚を手にとり「天を仰いで賛美の祈りをとなえ、パンを裂いて〜配らせ」た。これは、聖餐式そのものです。大した資金も人手もなく、世の中に痛みと苦悩と不足ばかりが見えるとき、わたしたちは気落ちし、どうせ何もできないと絶望しかけます。しかし、持っているものすべてを神さまの前に差し出す。差し出す内容は、具体的/象徴的両方かもしれませんが、いずれにせよ、考えもしなかった展開を迎える。それは今で言うクラウドファンディングかもしれないし、趣旨に心底賛同する人が手を挙げることかもしれない。そのすべてを包括している聖餐式は、イエスさまが招いてくださる最高最大の歓迎式でありお別れ会であり、そして何よりもおもてなしです。心と魂が感謝で満腹になる最高の食卓です。その大きな恵みをいただくわたしたちは、人々の間でその愛と恵を分かち合うとき、あり得ない程たくさんの人々の疲弊した心を癒し、前へ進む活力をもたらすはずです。それが奇跡でなくて何でしょうか。それを信じて、今日も5つのパンを差し出していきたいと思います。
ありのままで従う
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.7.16
40数年前、聖公会神学院の2年生には、臨床牧会訓練というプログラムがありました。それは、約1ヶ月に渡り、来る日も来る日も入院患者さんを訪問し、お話を聞く。途中、たまに医師や看護師などのレクチャーも入りますが、とにかく訪問した時の会話を逐語録にまとめ、それをグループディスカッションの中で、他の参加者から滅茶滅茶に叩かれる(と感じた神学生も多かった)というものです。
そうなると人間、自己防衛に固執します。なんとかして人から突っ込まれないよう、落ち度のないよう、考察まで完璧にしようと、自信満々の会話逐語録を報告するようになります。でもそうすればするほど、「自分第一」がはっきりと透けて見え、頑張れば頑張るほど、弱さが露呈する、そんな悪夢のような訓練でした。向き合いたくなかった自分の歴史、思い出したくない傷、そして自分の足元を見ると「上げ底」以外の何ものでもなかった真の姿が明確になる。しかし、傷に苦しみ、怒りと悲しみに喘いでいる人の傍に立つには、まず自分の傷を受け止める必要がある、それを思い知らされた期間でした。
自分の弱さを認められるようになるのは、諦めではなく成長です。知識を開陳すると歓迎されることもありますが、単に理論武装で壁を作っている場合もあります。完璧を目指せば目指すほど、完璧でない自分は赦せなくなり、存在の価値を疑います。
そんなわたしたちにイエスさまは、「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持た」なくてよい、と命じられる。その意味は、「あなたが生きていることは、わたしが命じたからだ。あなたは、もうそのままで大丈夫だ。自分の付加価値を探してウロウロする必要はない。あなたのそのままが、すでに尊い真価なのだ」とおっしゃっているように思うのです。自分の身を守るための最大限の必要は満たしても、本当に神さまが守ってくださるのかどうか不安になるのではなく、不安に駆られて鎧を身につけ、兜を被り剣を手にして身動きできなくなるのではなく、神さまに信頼し、その姿こそが人を変え、状況を変えていく力となるのではないでしょうか。
弱さとつまずき
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.7.7
生まれる前から教会の礼拝に出席していると、教会に行っても親戚のおじさんおばさんに囲まれているような気分になります。それは親しんだ環境ではあるものの、折あるごとに「あの頃はおしめをしていた」など、理由もないのに、わざと笑いの種にすることによって、「よく知っている」感を強調される感じ。話の中身は違えども今日の福音書で、イエスさまに対し「石切り労働者なのに」「(父親がわからない)マリアの息子なのに」「兄弟姉妹は極めて平凡なのに」とつぶやく人々と重なる気がします。偉そうなことを言っているけれど、おまえのことなど小さいときから知っている、大したことはないんだと言いたがる人々です。
当時と今の「石切り工」や「シングルマザー」の立場は違うかもしれません。でもこの話の共通点は、こんなもんだと決めつけていたこどもが、いつのまにか変遷し、自分の知らない世界を持っている、それが不安の原因になります。なんとかして不安を払拭するために「自分の知っている昔の」イエス坊やへ引き摺り下ろさずにはいられない。それを聖書は「人々はつまずいた」と記します。自分を変えないで済むために、知らないこと、理解できないこと、わからないことを否定する、その弱さを指しているのでしょう。
これまでの経験や蓄えた知識が脅かされるときも、この弱さが発動するように思います。イエスさまを拒んだユダヤ教の指導者層、ここに登場する故郷の人々も、イエスさまの言動によって、今まで守ってきた何かを壊される不安を感じたのでしょう。そしてイエスさまの伝えようとされている中身よりも、まずこれまで守ってきたものにすがりつく。今保っている安心な日常を変えたくない、それを最優先させたのだと思います。
イエスさまによる「よい知らせ」は、わたしたちを今まで行ったことのない世界へと導きますので、ワクワクするような冒険とは限らず、不安や迷いでいっぱいになることもあるでしょう。不安になること自体がわるいのではなく、その不安の処理の仕方の問題なのだと思います。他を貶めるのではなく、逃げ出すのでもなく、たとえスッキリとした結論が出なくても、神さまの真意の前に立とうとすることができますように。
神の手の中にある (マルコ5:22〜24、35〜43)
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.6.30
この手の奇跡の物語は、なかなか素直には読めないときがあります。人が亡くなることそのものが、果たして「避けるべき悪」なのかどうかという疑問、そしてイエスさまに生き返らせていただいても、必ずいつかは亡くなる。そうするともう一度、別離の痛みと悲しみをやり直す体験も待っている。イエスさまがおられたから甦ったのであって、立ち会うことの叶わなかった人々、戦乱や飢餓によりこの瞬間も命を奪われている人々は、この物語をどう理解すれば良いのか。そんなふうに考えると、死から命へと戻された、この特異な少女の物語を、「良い知らせ」として、わたしたちがどのように受け止め得るのか、難しいと思ってしまいます。
しかしながら、この物語はそもそも「イエスさまのスーパーパワーが効いて、少女が蘇ったというありがたいお話」ではない、という気もしています。わたしたちは大切な人を送ったとき、そうでない場合もありますが、「ああするべきだった」「自分がこうしていたら結果が違っていたのに」「自分が足りないせいで死なせてしまった」という自分を責める声に繰り返し悩まされることがあります。一見、亡くなった人を想う気持ちが、そうさせるということなのでしょうが、この声の危険なところは「命の時間を私は変えることができたかもしれないのにそうできなかった」という想いへの誘惑です。
戦乱の中にある国々の人々は医療へのアクセスも難しく、栄養の行き届かない状況の中では寿命が短い、という現実は確かにあります。しかし、「寿命が長いことが善」「死ぬのは避けるべき悪」というこの世の常識に縛られて生きる必要はない、というイエスさまからのメッセージなのかもしれないと思います。もちろんお別れは辛いし悲しい。それでも、失ったものではなく、預かっているたくさんのものを、明確に認識できるようなわたしたちでありたいと思います。自分自身の命も、親しい方々の命も、そして遠い国で苦悩する命も、身近で深い悲しみから抜け出せない状況にある人々の命も、世の常識を超えて、神の手の中にある。その真実を忘れないでいたいと思う次第です。
目に見えるしるし
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.6.23
ゲラサ(ガダラ)という町にある墓場に住み、自分の身体や心を石で傷つける。山々にこだまするような恐ろしい声で叫び続け、人々が彼の手足をしばって押さえつけようとしても、じきにくさりをちぎり、町の中や外を歩き回る。その情景を想像するだけで、この人の心の痛みが伝わってくるようです。人々を物理的に傷つけたとは聖書の中に書いていませんが、町の人々は彼を持て余し、活かすでも殺すでもなく、その生命が尽きるまで縛り付けておく、そしてかかわらない。そんな対処の仕方だったことが想像できます。どうしたらいいのか途方に暮れていたことでしょう。
一方、その人にとってはどうだったでしょうか。何らかの理由で人とのコミュニケーションスキルを失ったのかもしれないし、町の人々の扱いに傷つき、言葉を用いることを諦めていた可能もありますが、イエスさまに叫ぶことはできたようです。わざわざ遠くからイエスさまに走り寄り、「おまえは関係ないだろう。神の子イエスよ、わたしを苦しめないでくれ」と大声で叫びます。次の展開で、そうなった理由がわかるのですが、イエスさまはその人と目を合わす前に、彼の中に居る「汚れた霊」に対し、出ていくよう、すでに言っていたからです。そして「主があなたの苦しみをわかってくださったことを他の人に知らせてやりなさい」と伝えます。
なぜ大量の豚を死なせる必要があったのかという疑問は残ります。カトリック教会には、エクソシスト(悪魔祓い)という専門的なお役目がありますが、人間と同様、霊や悪霊にも人格のようなものがあり、また感情もあるようです。彼に取り憑いていたレギオン(軍団)たる悪霊たちは、イエスさまに対抗できないことを悟りつつも、持って行き場のない怒りを持て余します。せっかく得た安住の地(取り憑かれた人)を失い、その人を使って実行しようとした計画を破壊され、行き場のない激怒を向ける矛先として、2千匹の豚の群れを溺死させることに出ました。可哀想ではありますが、そこは豚を食べないユダヤ教文化ではやや冷たいあしらい、豚は飼っておく必要のない動物です。たくさんの収入を生む2千匹の豚よりも、あなたの方が大切というメッセージも、イエスさまは伝えたかったのではないでしょうか。
神の国となるからしだね
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.6.16
「からし種は小さい」という話はよく耳にします。聞くところによると、「種」という印象よりは、「粉」に近いと人は言います。手のひらに載せると、わずかな風が吹いてもあっさり飛び散ってしまう。その形態からすると、いのちが秘められているようには見えず、そして大きな力が潜んでいるようにも見えない。しかしあえて、このからし種が「神の国」のたとえとして用いられていることに、意味があるのでしょう。
まずここでいう神の国ですが、いわゆる亡くなってから行く場所(天国)のことではないと思います。というのは、種を植え、成長したのちは、野菜として収穫するようなイメージが描かれているからです。つまりわたしたちが今、生きている現代という地上に、神の国という野菜を収穫する話ではないかと思うのです。では一体、神の国とは何か。ひとつは、目に見える力に過剰に寄り頼む重圧からの解放された世界でしょう。全然なくても困りますが、まずお金。そして権力、社会での優位性、他人からの期待。これらを得ることに必死になり、これらを得ようとしない人はさらに生きにくくなる。こんな現状の中、種を植えて「神の国」の収穫を待つ。先が見えないだけに、なかなかハードルは高いです。想定した実りが得られないことが続くと、神の力に信頼するより、何が間違っていたのかと振り返りはじめてしまうかもしれません。
種の外側からは見えなくても、その中に命や力が秘められていることを信じるのは第一歩なのでしょう。しかし人間の勝手な思いにより、深く埋めすぎても芽は出ず、水をやり過ぎれば根を腐らしてしまう。太陽の光は不可欠ですが、日照時間が多すぎても枯れてしまう。こちらのやりたい作業を実行して、それを種に押し付けるのではなく、神の計画は何なのか、この種はどうなりたいと思っているか、思い巡らすことは、想像以上に難しいのかもしれません。
ゆるされない間違い
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.6.9
初めてこの箇所を読んだときはギョッとしました。父なる神でもイエスさまでもない「聖霊なる神」を、知らないうちに「冒瀆」(ボウトク)していたら、どうなるのかと。それにしても、三位一体の「聖霊なる神」は、人々の間にまだ下ってきてはいないのではなかったかと。
ものの本によると、あの膨大な旧約聖書の中では、イザヤ書に2回だけ「聖霊」に相当する言葉が出てくるとのこと(新約聖書は93回)。しかも元々、風や空気振動を表す言葉だったのに、人間の息や命をも指すようになり、やがて霊魂や神の霊を意味するようになっていったということです。しかも、神ご自身を意味しているのか、それとも神の働きの一部なのかも不明確。同じ「霊」でも、良い行いをする場面がある一方、「サウル王が霊の働きによってご乱心」という記事があるように、霊を神と一体化した絶対神聖なもの、という意味では使っていなかったかもしれません。これが新約聖書になると、超自然的なこと、そして「病」との関係で、「霊」の存在がぐっと出現してくるように思います。
今日の福音書に登場する群衆や身内、そして律法学者たちは、聖霊なる神がどうこうではなく、イエスさまの行状や教えを見聞きして「気が狂っている」「悪霊の力で、人々を癒しているので取り押さえねば」という判断をしています。悪霊の力を使って悪事を働いているのなら、ぜひ取り押さえていただきたいですが、ポイントはそこではないように思います。つまり、彼らにとってのイエスさまは、権威を失墜させる存在。彼らの主張とは異なる視点を持ち込んでくる脅威。情報や知識にアクセスできないたくさんの人々を作り、その状況を強化することで、揺るぎない「正しさ」を保管しようとしてきた彼らの中には、謙虚さや神の前に立っているという畏敬の念はまるでありません。自分たちを「神」の座に置き換え、他の主張は全て間違いという主張に対し、「永遠に赦されない」と言われているのではないでしょうか。イエスさまの教えがどう間違っているか議論しようというのではなく、「あの人は頭がおかしい」というスタンスで、自らを絶対化し、他を裁いていくこと。これに対して警鐘が鳴らされているのだと思います。
何のためか考える
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.6.2
むかしむかしある修道院では、1日7回の礼拝が捧げられていました。美しい讃美歌と荘厳なお祈り、修道士たちの捧げる礼拝は、とても美しいものでした。ところがある日、修道院に1匹の子猫が迷い込みます。やがて子猫は、修道士たちに慣れ、どこへでもついてきます。食堂や作業小屋、そして礼拝堂も一緒です。お祈りの間は、ゆったりと毛繕いをしたり、聖歌に合わせてみゃあと鳴いたり、みんなもそんな子猫を見て微笑みました。しかし、成長して鳴き声も図体も態度も大きくなった猫は、今度は「礼拝の邪魔になる」と言われ始め、礼拝前にその猫を玄関外に繋ぐことにしたのです。この修道院では、猫が玄関外に繋いであることで「礼拝中」のサインとなり、皆もそれに慣れました。年月が過ぎ、猫を繋ぎ始めた経緯を知らない人も増え、やがて猫も天寿を全うし、繋ぐ必要もなくなりました。しかし「礼拝時間に、猫が繋がれていない」ことに動揺した人々は、今度は「繋ぐための猫」を探しに出かけたということです。
今日の福音書では、麦の穂を摘むお弟子たちを見て、ファリサイ派の人々が非難をします。それは、他人の畑の麦の穂を盗んだからではなく、安息日、つまり神さまの日なのに「麦の穂を摘むという労働をした」ことがルール違反だ、という主張です。なんのために安息日のルールが定められたか、ということは忘れてしまい、マスク警察ならぬ「労働警察」をしているファリサイ人です。ルールを守れることが正義で、何のためのルールだったのかを忘れ、込められたメッセージの核心には興味がない。繋ぐ猫がいない、と動揺する修道士たちの滑稽さを笑ってはいられません。
笑い話のような猫の話も、ファリサイ派の人々の滑稽さも、他人事ではないかもしれません。かたちを踏襲さえしていれば安心という気持ちが、わたしたちの中にもあるからです。何のために今日の命を与えられているのか、どうして今日人々と出会っているのか、そこには神さまにとっての必然があるはずです。たとえすぐには理解や納得ができなくても、わたしたちのすべての言動を、振り返ってみる必要があるのではないか。自分の心の安定に留まるのではなく、イエスさまの愛と慈しみから出発している今日というかけがえのない時間を十分に生きることができますように。
「自分で生きていける」ニコデモ
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.5.26
ニコデモというユダヤ人社会の指導者であり、議員でもあった人は、どうしてもイエスさまに直接会ってお聞きしたいことがあったのでしょう、人目につかない夜を選び、会いに出かけます。
皆さんもご存知のとおり、イエスさまはユダヤ教の「本流ではない」というより、むしろ「異端者」と見なされていた時代です。そんなとき、イエスさまの言動が気になる、ひょっとしたら新しいタイプの預言者かも、いろいろと議論をしたい、お聞きしたい、と思っても、指導者たる者がそんなことを提案しては、全体の秩序が乱れることが目に見えていました。それは忖度ということではなく、ニコデモの立場の人がイエスさまに接近したことを皆が知ったら、思いがけず「それも良い」ということになってしまうかもしれない、そんなことを心配したのかもしれません。
ニコデモとイエスさまの議論は、「新たに生まれる」ことを軸に展開していきますが、ニコデモはあくまでも「母の胎内から生まれる」以外のイメージを持つことができないでいます。それは、ニコデモの立場から来る固執もあるかもしれません。しかしそれは、どんなに組織の中で立派な位置にある人々も、イエスさまが日頃接している貧しく、まるで存在しないかのように扱われている人々も、神さまの前には全く等しいのだと。「愛され大切にされ慈しみ」を受けるに相応しい存在なのだということが、どうしても納得できないニコデモの姿勢が浮き彫りとなっていきます。
そういう意味では、地位や名誉や財産を持っていて、それらを守ろうと必死になっている人よりも、何もかも失った人、最初から何も持たない人の方が、神さまの愛を受け入れやすいのは仕方がないことかもしれません。
「独り子を信じるものが一人も滅びないで永遠の命を得る」つまり、イエスさまの教えを信じることこそが永遠の命へと至ると、明確に伝えています。しかし、そのシンプルな良い知らせは、ニコデモのような人には伝わりにくい。それは、何もかも失った人と自分は違う、そんなことに頼らなくても自分で生きていけると思っているからです。わたしたちの中には、ニコデモとそうではない人とが同居しているかもしれませんが、どちらの声を聞くことにするのかは、わたしたちに委ねられているのではないでしょうか。
「聖霊」がわからない、、時もある
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.5.19
この世を創造された「父なる神」はわかる。2千年前に、神でありながら完全な人としてこの世に降り、人々の間で生きた「子なる神」イエスさまも、わかる。でも、「聖霊なる神」となるとピンとこない。果たして必要なのか、父なる神とイエスさまで十分じゃないか、こんな声も耳にします。
今日の福音書は復活節第5主日に聞いたばかりなので、聖霊なる神についてはもう2回も聞いた、いまだにわからないけれど、こんなもんだろうと深追いせず、季節の節目としての聖霊降臨日をお祝いすることで、満足してしまっているのかもしれません。
にわかに「聖霊なる神を理解した」となるのも、怪しいかもしれませんが、ひょっとすると「客観的に納得したい」という気持ちが、わたしたちに先行し過ぎているのかもしれません。「理性」を一つの特徴としている聖公会ですから、それもわるくはないのですが、きちんと説明がつかないと気持ちがわるいというだけではなく、どのように聖霊なる神が私の毎日の生活に役に立つのか、利益があるのかないのか、というあたりで「納得」しようとしていたら、それは少し「理解する」こととは違うと思います。
ところでイエスさまは、今日の福音書の中でわかりやすいネーミングをしています。聖霊なる神を「弁護者」(「協力者」という訳もあります)「真理の霊」と呼ばれました。まもなく地上を離れ、肉体を持った人間としては、一緒にいられないご自分の代わりとしての存在、人々と永遠に一緒にいてくださる存在として、聖霊なる神を送ると言われました。その存在は、孤高から神の価値観を基として、人類を裁いたり評価するために居るのではなく、わたしたちの側に立ち、神の栄光が地上に現れるために、人々の間に神の愛が広がるために、真理を分かりやすく示し、共に協働する存在、ということなのでしょう。
わたしたちは、そんな聖霊の働きを邪魔しないためにどう生きるのか、思い込みと偏見を拭いつつ、なんのために神がこの地に教会を立て、何を伝えるよう促されておられるのか、聖霊降臨日が「教会の誕生日」と呼ばれることとともに、思い巡らしましょう。
彼らを守ってください
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.5.12
ここで言う「彼ら」とは誰のことか、という疑問が浮かびます。聖書の流れとしては、十字架はまだこれから。弟子たちに対して直接にたっぷり語ったのち、今度は、天を仰ぎ、弟子たちの前で、父なる神に向かって祈られた言葉です。一見すると、「彼ら」とは、弟子たちを指しているようにも思えますが、「世は彼らを憎みました」「彼らを〜悪い者から守って下さる」「真理によってささげられた者」と続くと、「それは、まだこれからなのに」と感じるのは、私だけでしょうか。
弟子たちが世間から本格的に「憎まれる」のも、「悪い者」が皇帝やユダヤ宗教者の支配階級を指すのだとしたら本当の迫害も、そして、イエスさまの言葉の意味を、弟子たちが本当に理解し、みことばを伝えるために遣わされていくのも、まだあとのことだと思うからです。それらすべてを、既成事実のように表現されるということは、すでに世から憎まれ、今すぐにでも抑圧者から守られる必要があり、そして人々の目には隠されているが、真実を生きざるを得ない人々、つまり弟子ではなく、当時のもっとも抑圧された人々を「彼ら」と言っているのではないかと思うのです。
つまり、最も身近にいて行動を共にし、苦楽を分かち合った弟子たちを、身内感覚でもって「守ってください」と父なる神に頼んでおられるのではなく、イエスさまが最も心を砕いた、当時の世界では顧みられなかった底辺の人々のことを「彼ら」と呼び、守って下さるようお願いしているのではないかと思うのです。実際の「彼ら」の中には、体制におもねり、仲間を裏切り、利権をむさぼるような者もいたことでしょう。しかし自分の努力や力ではどうすることもできなかった階級社会の中で、底辺に生きざるを得ない人々と共に有ろうとしたイエスさまは、「そこへ行木、一緒に立とう」と、弟子たちを励まされたに違いないのです。
「彼らを守ってください」これは、わたしたちへのイエスさまからの呼びかけでもあり、わたしたちの祈りでもあります。彼らを守ろうとする神さまの働きに手を添えるため、わたしたちは何をしていきましょうか。祈りつつ、来週の聖霊降臨日を迎えたいと思います。
愛の存在を信じる
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.5.5
美しい言葉を思いつかなくても、気の利いたことをしてくれなくても、その人から自分を大切にしている気持ちが溢れてきて、心も魂も温まる。何もしてくれなくても、その人がそこにいるだけで、なんだか心の中があたたかくなる、そんなことを感じられたら、なんと幸せなことでしょう。
もっとも社会一般では、そのような目に見えない力については、存在しないものだ、価値がないのだとする風潮もあります。役に立つ、なんでも同意する、耳が痛いことは言わない、そんな人のことを「あの人はいい人だ」と言っている声を聞くと、何だか残念な気がします。大切にしているからではなく、「都合がいい」から、いい人だと言っているに過ぎないからです。
昔、ある大学でチャプレンをしていたとき、「親が自分の言動について注意してくる、私は嫌われている」と悩んでいた学生がいました。親御さんのモノの言い方にも問題があったのかもしれませんが、この学生は褒められることが愛されることの証であり、批判やダメ出しは悪意の表現だと思っていたのです。どうして彼女がそう思うに至ったかは忘れましたが、相手を大切にしようとするとき、快適で耳障りの良いことばかり並べていては、伝わらないこともあります。相手に嫌われても、また誤解されても、聞きたくないことも伝えねばならないというときもあるでしょう。
そして「愛」の最大の特徴は、見返りを求めないことです。相手から感謝される、認められることも、時には「見返り」に相当します。誰でも感謝されれば嬉しいですが、もし喜ばれなかったことに腹を立てるなら、それは「感謝される」という見返りを期待していないかどうか、自分に聞いてみる必要があります。「愛」に生きることは、「よい子」「理想の人」という評価を得ることを求めていては、なかなか見えてこない到達点かもしれません。しかし、ひたすら神さまのみ旨を探し求めること、それはすなわち、イエスさまが教えてくださった愛に信頼する生き方を選ぶことです。そうしていれば、自然に自分を大切にし、人々を大切にする生き方へと至るのだと、イエスさまは言っておられるのではないでしょうか。
いちばん大事なこと
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.4.28
早いもので、イースターから数えてもう5回目の復活節を迎えました。この5週間、復活されたイエスさまは、繰り返し弟子たちのところに現れ、十字架の出来事は敗退と絶望ではなく、神さまの愛を伝える道が、まっすぐに備えられた、そのことに信頼するように、と語ります。イエスさまとの再会を果たし、さらに短い3年間の活動中、聞いていたのに悟ることのなかった弟子たちが「愛」の本質を理解できるようになると、もうそろそろ本当のお別れのときが迫っています。
来週には、昇天日(今年は5月9日)を迎えます。復活して肉体を持ち弟子たちと一緒に過ごしたイエスさまは、天に戻っていきますが、別れの前に繰り返し語られる内容は、「神の愛」についてであり、イエスさまが言われる「掟」の内容でもあります。イエスさまの語られる「掟」(愛)はあまりにも大きく、執着や愛着、あるいは情熱といったカテゴリーをとっくに超えていて、さらにはそれこそ把握しきれないほど豊かで遠大なものであることを実感として知ると、いったいどうしたら「愛に生きる」ことになるのか、途方に暮れる気持ちにもなります。
実践不可能な気持ちにもなりますが、しかしそれを自分一人で取り組まなくてよい、ちゃんと「弁護者」(「協力者」「聖霊なる神」ととらえることもある)を、あなたのために遣わすからと約束されます。愛に生きることは、「協力者」がいてくれても、決して簡単な道のりではないですが、それでも愛に生きるよう、招かれているわたしたちです。
神さまは、自分が祭り上げられることは望まず、ひたすらわたしたちの幸いを求める方。わたしたちが救いに至り、人生を取り戻す様子を見て、それだけで満足する神です。わたしたちが不自然に自分を曲げ、社会規範の「よい子」「理想の人」になってみせることが必要なのではなく、愛に生きる地味な努力をひたすら積み重ねることこそが、大切だと思うのです。この地味な努力を重ねることにより、わたしたちは、神の中で生かされていること、神は今もわたしたちの内で働かれていること、を少しずつ見い出していくのではないでしょうか。
あなたをまもる
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.4.21
イエスさまは、ご自分と人々との関係を、羊飼いと羊に例えました。今日はまず、イエスさまの時代の羊と羊飼いについて思い起こしたいと思います。
羊は反芻動物。草、樹皮、木の芽、花を食べ、聴力に優れ、視力も周辺視野270–320°あり、頭を動かさずに自分の後を見ることができることから、背後の危険も察知します。また、人間や他の羊の顔を何年も記憶でき、顔の表情から、心理状態を識別する知能もあるとのこと。毛の色は、白に始まり、黒、赤、赤褐色、赤黄色、褐色、斑模様など、さまざまです。ところで、危険察知の能力には長けているのですが、気が動転しやすく、群全体が一気にパニックになることも。そうなってしまうと、初心者の手にはおえず、危険行動を止めることも難しいようです。ひとことで言うなら、臆病で、頑固で、自分勝手。
一方、羊飼いです。聖書の中で、「油注がれる」前のダビデが羊の群れの番をしていた、という記述があるように、こどもや老人など「お留守ばん」的な仕事から、何百という大きな群れを管理する場合までさまざまでしたが、いずれにせよ、古く(紀元前3000年頃〜)からある仕事の一つでした。羊は家畜ですが、小屋の中で飼うことはできず、常に牧草地へと移動するので、羊飼いも常に移動を強いられる宿命。しかしその存在は、人間が生きていくための生命線なのに、「いなくても大丈夫」とみなされ、共同体の中では軽視され、いつ来ていつ去っていくのか誰も関心がない余所者、というポジションです。
今日の福音書では、狼に羊を奪われても他人の財産だから適当にやればよい、個々の羊には関心がないというスタンスの「雇われ羊飼い」と、羊を守るために命まで捨てる「良い羊飼い」との対比が描かれます。通常、羊は自分の羊飼いを選べませんが、良い羊飼いは、個々の羊を熟知し、声を聞き分ける、そして羊も自分の意志でその声に従っていきます。またイエスさまは、「囲いに入っていないほかの羊」のためにも命を投げ出す、と言っておられます。
羊は私有財産であり生活のためには不可欠、だから守らなければならない、という主張ではなく、羊は臆病で、頑固で、自分勝手だが、それを受け止め理解している本物の羊飼いであるイエスさまは、何があっても命がけで羊を守り、そしてイエスさまと羊のつながりは、どんな力でも破壊することができない。そんな神さまの意志を、なんとかして伝えようとされているのではないでしょうか。
わかってほしい
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.4.14
イエスさまの逮捕と十字架の出来事は、弟子たちにとって、考え得る限りの「最悪」でした。裏切りと嘘、そして信仰の薄さと自己保身が露呈しました。それは見たくなかった己の弱さが明るみで出たこと。我こそはイエスさまに従っている、と思い込んでいたのは、イエスさまの威を借り、あたかも「イエスさまのようになった」気分を味わっていただけだった、何もわかっていなかった。神さまは本当におられるのだろうか、と思っていたかもしれません。対人関係なら、危機に瀕した時に慌てて逃げるような友だちは、二度と信用されないでしょうし、信用を失った側としては、いったいどんな顔をしてお詫びを言ったらいいのか、亡くなったイエスさまの魂の平安を祈る言葉さえ浮かばない、そんな状態だったのだと思います。
そんなどん詰まりでしたが、意気消沈している弟子たちを励ますために、イエスさまはよみがえった後、何度も彼らに現れます。弟子たちの不甲斐なさに小言を言うでもなく、裏切ったことを怒るでもなく、ただ「うろたえる必要はない、わたしはよみがえったのだから」と、一生懸命知らせます。まず謝罪する、まず懺悔する、などしか思い浮かばなかった弟子たちは大混乱したことでしょう。
十字架の出来事は「失敗」だったのではなく、成し遂げられた「完成」の出来事なのだと、イエスさまは教えてくださいます。十字架が失敗でなかったことをまだ信じられない弟子たちのために、その後もイエスさまは何回も現れて、そして肉も骨も伴って復活した実感を弟子たちに感じてもらうため、傷を触りなさいとまで言います。まだ不思議がっている弟子たちの目の前で、魚までバリバリと召し上がります。イエスさまは、難しい解釈や、神学議論でわかるように説得しようとしているのではなく、わたしたちが「信じる」ためなら、何でもする姿です。それは理屈ではない、科学的説明でもない、どんなに神さまがわたしたち一人一人を気にかけていらっしゃるか、そのことだけを受け取ってほしい、という姿です。
地位や名誉や権力によって、神の国を実現するのではなく、わたしたち一人ひとりが神さまの愛を受け入れ、今度はわたしたち自身が、神さまの愛を分かち合う人間に変えられていくことが神の国の実現に他ならないのです。イエスさまに再度出会い、別人のように変わっていった弟子たちが「証人」として派遣されていくように、わたしたちもまた、愛を伝える証人としてこの世に遣わされています。
シャローム
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.4.7
明らかに息を引き取られたイエスさまが、再び肉体をもって「復活された」。それがどういうことなのか、わたしたちの理解と想像を超えます。家の扉という扉、窓という窓すべてに鍵をかけ、ローマ兵士の足音を恐れ、同胞のユダヤ人たちに見つかることを恐れ、息をころして潜伏していた弟子たち。身が安全ではなかったことに加え、生きる理由のすべてだったイエスさまを殺されてしまい、何をしたらいいのかわからない、茫然自失という言葉がぴったりの状態だったに違いないのです。しかしそれだけではありません。イエスさまが仲間を一番必要としている時に、裏切り見捨てて逃げた、という恐ろしい事実がありました。イエスさまがたとえ神の子であっても、背負いきれない重さで呪うだろう、決して赦してはもらえないだろう、生きてはいられないだろう。罪悪感という言葉では表現しきれない重圧に押し潰されていた弟子たちですが、まるで昨日まで一緒にいたかのように、イエスさまが「シャローム」と言って家の中に入ってきます。
まるでサプライズパーティのようでもありますが、呆然としている弟子たちに、イエスさまは釘打たれた傷跡や、槍で突かれた脇腹などを触らせてまで、本人であることをわかってもらおうとします。いつもと変わらないイエスさまの態度に、弟子たちはどうこの事態を受け止めたらいいのか、最初は混乱したことでしょう。
しかしイエスさまは、弟子たちの弱さを指摘するでもなく、嘘までついて保身を図ろうとしたことを非難するでもなく、「信じなさい」とだけ言われる。それは、何かを鵜呑みにする信心ではなく、裏切っても弱さが露呈しても逃げ出しても、神さまは変わることなくあなたを大切にする、愛しておられる。それを「信じなさい」というメッセージだったのだと思います。さらにイエスさまは、この不甲斐ない弟子たちに、大切な役割を委託します。聖霊を受けて、罪を赦す権限を預かり、そして人々の間に遣わされ、主による平和を宣べ伝えるよう命じられます。
わたしたちも、もっと立派な信仰を持つようになったら、内外に主の平和を宣べ伝えてもよろしいということではなく、弱さと不完全さと情けない現実をもったままで、その大切な役割を預かり、この世に派遣されています。ひとりで出来ることには限界がありますが、わたしたちが神さまの愛を共に信じ、一緒に祈るとき、わたしたち自身の小ささを超えて、遣わされていくのではないでしょうか。
イースターの喜びが皆さんとともに!
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.3.31
「クリスマスとイースターでは、どちらが大きなお祭りですか」と聞かれると、思わずペンテコステの話もしたくなりますが、この人は「キリスト教の三大祝日」について情報を得たい訳ではないでしょう。クリスチャンが「重要だ」と力説するイースターは、教会の外から見ると、クリスマスに比べてむしろ地味。せいぜいウサギやひよこ、チョコレートに茹で卵くらいが、明るい楽しいイースターのイメージであり、クリスマスの華麗なイルミネーションや、ホテルのディナショーには負けてる、そう見えるのかもしれません。
ところで、聖書を読んだことのあるわたしたちは、イエスさまが十字架上で亡くなられても、すぐに復活すると知っているので、十字架の死と復活という出来事は、結末を知りながら見ている映画のようでもあり、弟子たちが追い詰められた切迫感は、なかなか感じることが難しい、ということもあるのでしょう。その一方、十字架という処刑方法が、あまりにもむごく、つらいので、意識的に心の距離を置きたい、という事情があるかもしれません。
十字架は、身体的な苦痛に加え、精神的にも「見捨てられ、誤解され、軽蔑され」る刑罰。神さまに信頼していても、本当にこれでよかったのか、何かの間違いではなかったか、という恐怖と捉えどころのない不安に包まれたことでしょう。イエスさまにとって、あえて引き受けられた十字架だったものの、死ぬまで続く苦痛と恐怖は、詩篇22篇を暗唱しなくては正気でいられないようなものだったのでしょう。そして、イエスさまを理解し、その姿勢に賛同して一緒に生活も活動も共に過ごしてきたはずの弟子たちは、一人残らず逃げ出し、イエスさまのどこが「神の子」だったのか、どこに「全能の神」がおられ見守っておられるのか、すべて否定される暗闇に追い込まれていた十字架の出来事でした。
それから3日後、墓の石(蓋)がころがしてあって、イエスさまの遺体が消えていた、そして弟子たちの隠れ家に現れた、と聖書は語ります。弟子たちの中に現れたイエスさまは霊体だったのか実体だったのか、そこは詳しく書かれていません。そして、どうしてそういう展開になったのか、何のためだったのか、わからない部分はありますが、明らかなことが一つあります。イエスさまを捨てて逃げ出し、嘘までついて身を守ろうとした弟子たちが、別人のように変わっていきます。イエスさまは無駄に殺されたのではなく、今も生きて「わたしのために」復活された。そのことを知った弟子たちは変えられていきます。しかも、弟子たちが考えていたような「神の世界の実現」をするためではなく、自分の味方として矮小化された神を確保することでもなく、心の底の底の暗闇まで降りてきて、わたしたち自身が少しずつ変わっていくことに寄り添う神に初めて出会っていきます。それは生前、イエスさまが繰り返し伝えてくれた神の姿と出会うことであり、今までの価値観がひっくり返るような奇跡の物語だったに違いないのです。
わたしたちも時には、教会の華々しい成功物語や、人々の賞賛を受ける信仰生活を妄想するかもしれません。しかし、そこに神はおられず、空っぽのお墓と同じなのだと思います。神さまがもたらす「救い」、それは深い苦悩や悲しみを分かち合うために地上においでになった神、人類一般ではなく、わたしの労苦と孤独と痛みを理解し受け止めるために来てくださった神、そして、変えられることを諦めているわたしたちに対して「奇跡は起こる」と告げてくださっている神、その本当の愛の底力を、わたしたちが真剣に受け止めることができますように!
さあ、そのときが来た
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.3.24
イエスさまが地上に生まれ、マリアやヨセフに育まれて成長し、家の手伝いや、妹や弟の世話をしながら、「普通の人」として時を刻んできたのは、十字架に向かう人生のプロセスだったと思うと、正直切ない気持ちになります。今日のイザヤ書にあるように「軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負」う人となった。それは、わたしたちの痛みや、密かな裏切りや、神に対する背信行為を変えられない弱さを、「捕らえられ、裁きを受け、命を取られ」ることによって、担ってくださるためだった、と書いてあるからです。
ユダヤ教の世界では、男の子の成人の儀式として、旧約聖書を読み上げ、暗誦する場面があります。イエスさまもそうされた、と聖書に書いてあるわけではありませんが、こどもの頃から立派なユダヤ教徒となるべく、旧約聖書を読まされ、その習慣の中で成長してこられたのだと思います。そして、ご自分が何かとても特別な役目を担っていると感じたとき、救い主としての使命があると確信したとき、イザヤ書のこの言葉を繰り返し、ご自分の胸に留めたに違いないと私は思うのです。それは、悪には近寄らず、遥か離れたところから人々を見下ろし、世界に君臨して罰を与える神ではなく、もっとも「低いところ」つまり、わたしたちの弱さや過ち、見捨てたくなるような暗黒の心さえ切り捨てず、とにかく共に歩いてくださろうとする神。理解されなくても、誤解さえされても、無視され続けても、わたしたちが救いに至りさえすれば、それで「満足する」という神の姿です。
このイエスさまの生涯を知り、そして救いの道を選ぶかどうか、それは、自由意志と責任とを持って、自分の人生を歩もうとするわたしたちひとりひとりに託されているのだと思います。
自分のいのちを「愛する」
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.3.17
ヨハネ福音書は全体の半分以上が、イエスさまの十字架の物語で占められています。今日の福音書は、イエスさまがエルサレムにやって来た、と始まり、ご生涯の最後の1週間が語られる冒頭部分です。エルサレムにやって来たイエスさまに、一目会おうとする人々の中に、ギリシア人もいたというから驚きです。それは礼拝の中に突然、袈裟を着たお坊さんたちが混じっているような光景だったことでしょう。どういう背景の人か、ということに関係なくイエスさまは、「一粒の麦」の話をします。
「自分の命を愛する者はそれを失う」と言われてしまうと、自分を大切にするのはいけないような印象を持ちます。しかし、ここで使われている「愛する」はアガペではなく、どちらかというと「好む」「いつも用いたい」「親しい間柄」という意味で使い、ことに「神を愛する」ときには決して使わない語だそうです。つまり自分の考えやこだわりに執着し、自己中心的な世界から出られない人は、やがて自分で自分を滅ぼす、と言っておられると思います。一方、「この世で自分の命を憎む人は〜永遠の命に至る」も、自分をないがしろにすれば天国へ行く、などと読んでしまうかもしれませんが、この「憎む」は、「選ばない」「軽視する」という意味です。つまりこの世の価値観優先ではなく、常識に縛られている自分を自覚し、神との関係を守ろうとする人は救いを得る、という意味でしょう。
イエスさまは、「わたしに仕える者」は誰であっても父なる神はその人を大切にする、と言われていることに注目しましょう。この話を聞いているのが、冒頭に登場したギリシア人なのか、あるいは取次をした弟子たちだけなのか、詳しくは書いてありませんが、いずれにせよ、イエスさまの言われたことに賛同し、その生き方に倣おうとする人は誰でも(たとえ袈裟を着て頭を剃ったお坊さんであっても)、神はその人を大切にしてくださる、愛してくださる、ということなのではないでしょうか。それは外国人でも他宗教の人々でも、あるいはわたしたちが良い子のときも、悪い子であっても、取り返しのつかない失敗を隠していても、自慢することがあってもなくても、「イエスさまの生き方に倣いたい」それこそが、自分のいのちを真に愛することだ、と言われていると思うのです。
5つのパンと2ひきの魚
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.3.10
5つのパンと2ひきの魚は、わたしたちがそれぞれ、神さまからお預かりしている「タレント」の事だと思うのです。その「タレント」は、神さまの目から見ると、かけがえのない唯一無二の輝くような尊いものですが、世界や社会の価値観では、気にも留めなかったり、評価されなかったりします。軽視されるので、自分でも価値がないような気がして、他人の持っている「タレント」が羨ましく、勝手に妄想を掻き立て、思わず比べて落ち込んだりします。
最初に大麦のパン5つと魚を差し出した男の子は、そんなことは考えていなかったのでしょう。みんなに喜ばれ賞賛されるかどうかあるいは「こんな不味いものなんて!」と馬鹿にされるかも、そんなことは全く心配していない様子です。一生懸命イエスさまのお話を聞いていて気がついたらもう夕暮れ。そしてみんな空腹。この男の子の荷物の中に、貧しい人がふだん食べているボソボソの大麦のパンと干した小さな魚が、たまたま入っていた。それをみんなで食べればいいじゃないかという極めて素直な話なのでしょう。
その男の子が、素朴な食事を差し出すと、それを見ていた大人たちも、自分にできることを思い出したのかもしれません。昔ポケットに入れたのにすっかり忘れていたタレント。自分の利益のためだけに用いようと隠してきたタレント。そして「こんなものじゃ駄目」という烙印を押し、恥ずかしく思ってきたタレントなど。しかし、人々は「そうか!神さまの前では率直にシンプルに、どうかお用いください」と差し出せばいい。そのことをこの男の子から学んだに違いないのです。すると、それらはやがて12のカゴに溢れ,皆が心の充足感を味わった、そんな話なのではないかと思うのです。
神さまは、わたしたちに必要なものをよくご存じで、すでに与えてくださっています。でもそれが「自分だけ」で完結する仕組みなのではなく、お互いに補い合い、支え合ったとき、カゴから溢れるほどの豊かな恵みを知ることになるのではないでしょうか。
不必要さとの対峙
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.3.3
教会が長い間守り続けてきた制度を、ある日突然、イエスさまがおいでになって壊しはじめたら、“びっくり”を通り越して、恐怖すら感じるかもしれません。制度だけではなく、「利用する人にとってその方が便利」「お互いにたすかる」などの理由をかぶせ、必死に守ってきた習慣や行事、みんなが「あって当たり前」と思ってきた事象なども、そこには含まれるかもしれません。今日の話は、通常のイエスさまのイメージからかけ離れ、読み方によっては恐怖すら感じるような話。一体何を「良い知らせ」としてこの話を読んだらいいのか、少々迷うところです。
それにしても、暴力や腕力の誇示を推奨しているのではなく、また、神殿に供える鳩を売ってやっと生活を成り立たせている庶民や両替商の下働きの今日のパンを奪ってもよい、そういう話ではないでしょう。今日の福音書は、その暴力的な行為が焦点なのではなく、現状に至る長い歴史があるとは言え、いつのまにか人の便利のため、より大きな利益を得るためには、聖なる場所も利用できるだけ利用してもかまわないという意識に対して、イエスさまは否を伝えなければと思われた気がするのです。神殿の境内が商売の餌食になっている状態は、当時の人々にとって当たり前過ぎる情景であり、全く無意識ではあるものの、神さまとの対話を軽んじる無感覚、神さまを無視してもかまわない、という心の表れだったかもしれないと思うのです。
表面だけの「敬虔さ」や「謙遜」を求める神さまではないことは、わたしたちは百も承知です。また、綺麗事やうわべだけの重々しい態度も、神さまは見抜いておられます。そして、わたしたちは「大切にすべきことを大切にしている」と思いたいですが、本当に本質的な事柄なのか、神さまの声を聞こうとしている行動なのか、それは問われることでしょう。
神さまとはかけ離れている言動であるにもかかわらず、変えることができないでいる状態を、もしわたしたちが抱えているなら、羊や牛を追い出し、両替商が得た利益を撒き散らしたように、イエスさまは前に進むことを手伝ってくださる。そしてそれは呪いや裁きではなく、わたしたちを、是が非でも救いへと導きたい、解放したい、という行動の表れではないでしょうか。
いのちを救え
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.2.25
大斎節に入って、まだ2回目の日曜日ですが、今日の福音書は、十字架へまっしぐらです。「自分の十字架を背負って、ついて来なさい」と言われるイエスさまの、その十字架とわたしたちのそれぞれの十字架はケタ違いですが、一方で「自分の命を救おうとする者はそれを失う」と言われたそのすぐ後に、「自分の命を損なって何の得があろうか」とも言われる。「いのち」がかかっているだけに、イエスさまはわたしたちにどうしろとおっしゃっているのか、不安にもなります。
「十字架」という現実を耳にしたとき、人の思いとして自然かもしれませんが、聞きたくないことを言うイエスさまを、ペトロは止めようとします。そんなことがあなたの身に起きてはならない、自分の身を犠牲にしてでもそれは回避します、くらいのことを言ったかもしれません。でもそれは、イエスさまを大切にしている人の発言のようでいて、実は「そんなことは聞きたくない」という自分の安心を最優先した、不安感を回避する言動だと、イエスさまは指摘されたのではないでしょうか。
わたしたちもまた、自分の背負いたいものだけを選んで背負い、こんな大変なことを自分は背負わされている、という気分になります。イエスさまを大切にしているようでいて、実は自己保身のための発言や行動をしていることがあります。わたしたちの聖書日課では、「自分の命を救いたいと思う者」とありますが、別の翻訳では「自分自身を救おうとばかり思う人は自分を滅ぼす」となっています。つまり、神さまが優先ではなく、他の人を思いやるためでもなく、(本人は気がついていないかもしれないけれど)自分の立場や気分の安定第一のため、あたかもイエスさまを大切にしているような行動をとって見せること、それに対してイエスさまは「サタンよ、引き下がれ」と言われたと思うのです。自分の命を守ろうとすることがいけないのではなく、命を守るフリをしながら、実は自己保身を優先する欺瞞について、イエスさまは指摘しているのではないでしょうか。このみ言葉に留まり、わたしたちが真に神さまと人々を大切にすることができるよう、願い求めましょう。それこそが、神さまからいただいた「命を守る」生き方なのではないでしょうか。
イエスさまの生涯のはじめ
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.2.18
大斎節の最初の日曜日は、イエスさまの洗礼と荒野四十日間の話から始まります。マルコによる福音書では、極めて簡潔に描かれていますが、イエスさまはまずヨハネから洗礼を受け、そして次に、荒野で「サタン」から試みられる四十日間を過ごされた(他の福音書では、3つの誘惑についても書かれています)とあります。
ところで「最後の誘惑」というずいぶん昔の映画がありました。その中でイエスさまにとって、荒野の四十日間の中の最大の誘惑は石をパンに変えることではなく、「十字架は本当に意味があるのか」という悪魔の囁きでした。イエスさまはそれを聞いて、一種の幻覚に陥ります。十字架に向かう生涯を抜け出し、家族を持ち、穏やかな生涯を送り、最後にこどもや孫に囲まれて大往生、というシーンでハッと我に返る、そんなドラマになっていました。
わたしたちには何となく、イエスさまは何の迷いもなく、すべてを見渡しつつ、神さまの計画通りに淡々と、十字架への道を歩んだようなイメージがあるかも知れません。不思議な出生、そのあり得ない展開を受け止めるマリアとヨセフ、そして12歳の時の宮詣などです。しかし、神ではなく完全な「人として」生涯を送られた、ということは、心の中の確信も、目に見える証拠も、また整った環境も最初からあったのではなく、孤独と不安と、時には恐怖と対峙しながら、一歩ずつ進むイエスさまだったに違いないのです。
つまりこれから起きることについて理解はしていても、イエスさまはどうしても洗礼を受ける必要があった、「あなたはわたしの愛する子」という声を聞く必要があった、そして荒野での四十日間を過ごす必要があった、そういうことなのかもしれません。
この四十日間の直後からイエスさまは、福音(良い知らせ)を語り、ご自分とともに働く仲間をつくり、人々を癒し、神の国がどんなところかを伝え、そして最後には裏切られ見捨てられる十字架への道が待っている「公生涯」へと向かいます。
理解できないことの前で固まらない
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.2.11
夏にも登場する「変容貌」(姿かたちが変わる)の話で、この物語はヨハネ以外のすべての福音書に登場します。現代のわたしたちにとっては難解でも、当時の人々には、どうしても外せないことだったのかもしれません。それにしても、説明もなしに突然エリヤとモーセが現れ、イエスさまと何事か語り合う。そうかと思うと眩しいほどの白さが強調される。そしてあわてふためくペトロが「小屋を3つ建てる」と口走り、イエスさまの洗礼のときと同じような「これはわたしの愛する子」という声が響く。なんだか疑問や不可解なことばかりが目につきます。
しかし、そもそもイエスさまの誕生も、その死と復活も、客観的には不可解なことです。そしてわたしたちに聖書が与えられているのは、よくわからないことを鵜呑みにするためではなく、その中に込められた「神さまがわたしたち人間に伝えたいこと」のエッセンスを受け取るためです。「不思議なこと」のエピソード一つ一つは文字通りそうだったのかもしれないし、そうでなかったのかもしれない。でもわたしたちがすべきことは、よくわからない事柄の前で固まって進めなくなることではなく、神さまが伝えたいことの核心を読みとることなのだと思います。
イエスさまがこの世に来たのは、「十字架にかかる」ためでした。充実した青春を送るためでも、家族との楽しい時間を過ごすためでもなく、十字架の上で死ぬために来たのです。その特別な出来事は、ひとりの人間としては「惨敗」ですが、そこには1ミリのブレもなく、神さまの計画が実行された、何ひとつ間違ったわけではない、とはっきり告げる必要があったのでしょう。
わたしたちの毎日の生活の中でも、何のために起きているのか、よくわからない出来事があるかもしれません。とくに、何故だか事がうまくいかないときは、自分を惨めに感じたり嫌な気持ちになったりします。でもそれは自分の基準だけが大きく支配している決めかもしれません。ずっとあとになってから「ああ、こういうことだったのか」と納得することも含めて、神さまの大きな計画の中で、その出来事が何だったのかと俯瞰する視点を失わないでいたいと思います。
イエスさまの癒し
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.2.4
いろいろな病気を抱え困っている人のために、イエスさまが祈ってくださると、病いが治っていく。発熱も、その他の故障も、そして取り憑いた悪霊も去っていく。これが確実に起こる出来事なら、こんなにうれしいことはないでしょう。しかし2千年前とはちがい今、ここにはイエスさまはおられない。そうなると、どこか遠い昔の話であり、自分とは関係がないかな、という気持ちになります。まして、自分の大切な人が今、病に苦しんでいても、イエスさまが手をさし延べて癒してくださるわけではない、と思うからです。
「病気が治る」奇跡の物語をどのように読むかは簡単ではないでしょう。神のスーパーパワーを悟る、信仰を深めた人にはこのような超能力が与えられる、などという理解もあるかもしれませんが、それで心からの慰めと元気が与えられるのでしょうか。神さまへの愛が深まるでしょうか。石をパンに変える奇跡をたとえ実行いただいても、翌日にはすぐにお腹が空くのと同様に、病いがひとつ治っても、翌日には別の病気がやってくるかもしれないのです。
皆さんもご存知のように、聖書の時代では、病気になること自体が罪の証拠でした。つまり過去に犯した「悪いこと」が、人々の目に見えるようなかたちをとって現れたのが病気だったのです。しかしイエスさまは、そのように受け止めませんでした。イエスさまの「癒し」は、医学的な治癒(場合によってはそれもあったかもしれませんが)よりも、社会が罪人だと決めつけている重圧からの解放、病いを負う人も神からの呪いではなく祝福を受けているのだと告げる「回復」だったのではないかと思うのです。病気や麻痺、痛みや苦しさが増すと、人は誰でもへこたれ、気持ちも下向きになりますが、たとえ不便や辛さと共に生きなければならないとしても、「あなたは神と共に生きる人、神さまにとって大切な人」という福音を、告げた物語なのだと私は思います。
「汚れた霊」の不得意なこと
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.1.28
カトリック教会には、ちゃんと免許を交付されたエクソシスト(悪魔払い師)という人がいるそうですが、今日の福音書のイエスさまはまるでエクソシストです。会堂で教えておられると、汚れた霊の方からイエスさまに近づいてきます。イエスさまを自由にさせておくと、我が身の安全が図れないと察知したのか、「関わらないでくれ」とわざわざ言いに来て、整合性のないことを次々語ります。
電車の中や公共施設でも、こういった人を見かけることがあります。「汚れた霊に取り憑かれている」かどうかは、外見からはわかりませんが、問題は中身です。精神疾患あるいは障害があるということとは別の、しかし本人がどうすることもできない何か大きな力に支配されていて、最初は窮屈だと感じている様子です。しかしながら、怒りや妬みなどのネガティブな支配力にせよ、普段の自分にはないパワーが存在する感じに慣れてくると、今度はそれを手放したくなくなってくる、そしてさらに闇の力に支配されていきます。
イエスさまは「黙れ」と、怒鳴り声で威圧した訳ではなく、悪魔祓いによく用いる「静かになりなさい」という言葉で、汚れた霊に語りかけられた。しかし心を「静かにしている」ことができない悪霊は、そこに居られなくなり出ていってしまったという事の次第なのでしょう。別の聖書の箇所に、部屋の中に悪霊が住みついたので、綺麗に掃除をして出て行かせた。しかし掃除をしただけで、中身については何の対策もしなかったのでそれを見つけた悪霊は、さらにたくさんの仲間を引き連れて住み着き、前よりもっとひどい状態となった、というお話があります。悪霊が居場所を探して、言い方を変えればわたしたちの心の雑音を探して、いつもうろうろしているのは、特殊なことではないでしょう。常にあれもこれも、より便利な、有利な、得する日常をゲットしようと、雑音をたくさん抱えている人は、ひょっとすると大きな危険に晒されているかもしれません。わたしたちに必要なのは、権力や他を圧倒する支配力ではなく、神さまの存在に耳を澄ませ、そこから聞こうとする「静かにしている」心です。
神の目に「人」であること
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.1.21
マルコによる福音書の冒頭部分についてお話しします。ヨハネから洗礼を受け、そして荒野で40日間断食しつつ悪魔の誘惑にさらされたイエスさまは、その直後に子ども時代を過ごしたナザレも含む、ガリラヤ地方から、最後の3年間をスタートします。
「時は満ちた、神の国は近づいた、悔い改めて、福音を信じなさい」、この言葉は壮大過ぎて、手に余る気持ちにもなりますが、「イエスさまは何のためにこの世に生まれ、人々の間で生きたのか」という問いに対するまとめ、ではないかと思うのです。人々と共に生きる最初のアクションとして、ユダヤ教に精通した律法学者や祭司ではなく、土地の有力者でもない。字が書けるかどうかも怪しい4人の漁師に「私について来なさい」と最初に声をかけます。
ところでシモンとアンデレは、「人間をとる漁師にしよう」と言われたことになっています。しかし、魚を獲って売りさばく代わりに、営利目的で人を駆り集め、日々の生活を成り立たせよう、というお誘いではないことは明らかです。なぜなら、原文には「人間の漁師」と書いてあるのであって、「人間を獲る」とはどこにも書いていないからです。
では「人間の漁師」とは、どういう意味なのでしょうか。当時の漁師という職業は、あまり好まれない仕事でした。危険を伴う割には収入が良いわけではなく、社会的にも尊敬される対象ではなかった。つまり、神の国を語っても、愛や慈しみを教えても、「漁師ごときが何か言っている、余計なことはしないで、魚だけ獲っておれ」とあしらわれがち。イエスさまは、そんな漁師たちを、まずお弟子さんになさいました。イエスさまの目には、彼らは尊厳あるひとりの人間以外の何ものでもなく、「あなたも神に愛されるのにふさわしい大切な人なのだ」という、神さまの真実を述べ伝える役割を担う者としてふさわしい、と心に決められたのでしょう。
わたしたちもまた、神さまの御用をそれぞれ預かっています。それは、社会的にどうこうとか、知識がどうこうという次元を超えた、神さまの計画の中にあります。「わたしごときが」という声が心の中に響くとき、何を怖れているのか、自分の心に聞いてみましょう。そして、何を大切にして生きるのか、自分とじっくり向き合えるといいですね。
主よ、どうぞお話しください
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.1.14
サムエル記という書があります。サムエルは人の名前で、ダビデという王さまの時代に活躍した預言者です。元々は1つの書として編纂されましたが、現在は、上・下2巻に分けられて、旧約聖書の中に納められています。サムエル記上は、サムエルの生い立ちから話が始まります。
昔々(紀元前千年頃と推定されています)、エフライム山中にエルカナという一家が住んでいて、ハンナ(「恩恵」という意味)と、ペニンナ(「真珠」という意味)という二人の妻がいました。ハンナにはこどもがいませんでしたが、エルカナからとても大事にされていました。その様子に、社会的優位(こどもが多い)にもかかわらず、自分より尊重されるハンナを妬み、ペニンナは機会あるごとにハンナをわざと傷つけました。シロという場所へ礼拝をしに行く恒例の家族旅行でも、毎年ハンナを苦しめました。ハンナは耐えきれず、会食の席を立って、礼拝所の入口で祈りながら激しく泣いているとき、祭司エリと出会います。ハンナは、男の子が生まれたなら、その子は神に捧げる、と祈りの中で神さまと約束します。
それから数年経って、ハンナに男の子が生まれました。乳離れすると、約束通りその子を連れてシロへ行き、祭司エリに預けます。その幼児がサムエル(「神は聞かれる」という意味)です。祭司エリは神に仕える人でしたが、その息子たちは祭司であるにもかかわらず、ならず者でした。人々からの神への捧げものを横取りし、その他諸々神を軽んじる行動を恥じない人たちだったのです。エリは、口頭での注意はするものの、息子たちから祭司職を剥奪するなどの行動はとりませんでした。
そんなことが常態化し、数年が過ぎた頃の話です。いつものように、神の箱が安置されている主の宮で、夜の眠りについたサムエルを起こす声が聞こえます。サムエルは、祭司エリが呼んだのだと思い、走ってエリの部屋に行くと「私は呼んでいない」と言われてしまい、また自分の寝床に戻ります。そんなことが数回あってから、祭司エリははたと思い当たり、その声がまた聞こえた時は、「お話ください、僕は聞いております」と答えるよう指導します。さて、サムエルがそのように応答すると、その声はエリ一家に対して裁きを下すことを予告します。エリにお世話になっているサムエルとしては、それはとても辛い内容で、伝えることをためらいます。なぜなら、エリの祭司としての苦悩と、息子たちの行状を止められない父親としての苦しみと、しかしそれをどうにも変えられない痛みを知っていたからでしょう。しかしエリに促されてその内容を伝えます。
やがてサムエルは、必ずしも真実を聴きたいとは思っていない人々に対し、聞くこともためらわれ、伝えることもためらわれるような、しかしどうしても神さまが伝える必要のある言葉を預かり、それを告げる「預言者」となっていきます。わざわざサムエルが言葉を預からなくても、直接、本人に伝えればいいのではないかとも思いますが、このエリのように、「わかっていても、どうにも止められない」「このままではいけないと知りながら、どうしても変えられない」状況もあるのだと思います。そんなとき、諦めて放置するのではなく、預言者を用いてでも何とかして伝えようとする神さまのあたたかさを、裁きの中でさえ感じます。
わたしたちもまた、聴きたくないこと、避けて通りたいことは、たくさんあるでしょう。たとえ時が止まったように、そのまま事が流れていたとしても、神さまは決してわたしたちを諦めたり放置したりならさないことを覚えたいと思います。そしてわたしたちにできることはただひとつ。「主よ、どうぞお話ください。しもべは(辛いけれど)お聞きします」と応えることではないでしょうか。
あなたはわたしの愛する子
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2024.1.7
バプテスマのヨハネと呼ばれる人は、自分の存在理由を「イエスのために道を備える者」であると理解していました。そして「わたしは屈んでその方の履物の紐を解く値打ちもない」と言います。ずいぶん謙遜した言い方だなと思いますが、外出から戻った家人の履物の紐を解き、足を洗うのは、その家の使用人の仕事でした。バプテスマのヨハネは、この世的にはイエスさまの従兄弟なのに、あえてそのような言い方をしています。これは、「親戚だから」とか、「知り合いだから」ということは、ヨハネの行動の根拠ではなく、人の思いとは別次元の存在であるイエスさまが、神から遣わされたものである、とのヨハネの宣言なのでしょう。それにもかかわらず、ヨハネはイエスさまに洗礼を授けました。しかも、洗礼は当時のユダヤ教の伝統的な慣わしではありませんでした。
ところで、わたしたちにとって「洗礼」とはどういう出来事なのでしょうか。神さまは、わたしをかけがえのない存在としてこの世に送り出してくださった、そしてぜひ幸せな生涯を全うしてほしいと心から願っている。そのことを信じているから、自分の持つ「罪」(的外れ)を告白し、弱さも痛みも含めて神さまが受け入れてくださっていることに信頼し、そしてこの世での務めを果たしたい。そんな自分の決意ではあるけれども、迷い、先が見えなくなるときもあるので、教会のみんなとその決断を共有したい、祈ってほしい、そんな意味が洗礼の根幹にあると思います。
イエスさまの洗礼に話を戻すと、改めて決心をしたからヨハネから洗礼を受けた、ということではないでしょう。しかし、伝統的なユダヤ教の教えや習慣や皆が信じている「かたち」ではなく、いよいよその真髄に生きようというスタートを切る決断をするということは、大きな痛みと苦しみが伴うことをご存知だったのでしょう。そしてそれは人々のため、神さまの本当のみ旨を知らせる、という大きな舵切りだった。それは、私欲のためでも、人々の評判のためでも、様々な期待のためでもなく、「召命に応えて生きる」というイエスさまの決意の表れだったのではないでしょうか。
神の本質
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.12.31
学生時代に「一緒に初詣に行こう」と友だちに誘われて、「家族で出かける用事があるから」と、おことわりしたことがあります。神社やお寺に近寄ってはならないと思っていたわけではありませんが、奏楽当番に当たっていたので、変更するのが面倒だったという極めて自己保身的な理由でした。それにしても、「主イエス命名日」という教会の祝日は、降誕日から数えてちょうど1週間。まるで、教会でも元旦のお祝いをしているようにも見え、普段からあまり伝統的な日本の過ごし方をしていない私は、なんて便利な暦だろうと感心したことを覚えています。
ところでイエスさまは、慣習に従って割礼を受けイエスと命名されました。これは伝統的なユダヤ教の習わしに則っており、保たれてきた習慣をこれからも粛々と引き継いでいく生涯を想起させます。しかしながら、これまで慣れ親しんできたかたちを、そのままそっくり真似をすることが「伝統」なのではなく、その時々に今まで出現しなかった事実が明らかになっていくことこそ、「伝統」だと、今日の聖書は言っているように思います。
まずモーセの物語。怒り、裁き、正義を行う神は、その時が来たときモーセと隣り合って立ち、自らその名前を告知します。名前を明かすことは、本質を知らせるということから、「共に在る神」である本質を告げる箇所です。もう一つは、羊飼いの物語。町や村の定住民にとって、羊飼いは当てにならない人種でした。近隣で徘徊していても、すぐにいなくなる。長い間救い主を待っていた正統的ユダヤ教徒には顕れず、律法を守れず、まともに付き合う価値もない羊飼いたちが、まず最初にイエスさまの誕生の場に招かれた。それは、誰に、どんな人々に、神が最も心を砕きたいか、愛したいか、その本質を告げる物語なのではないかと思います。
神が心を砕かれている、神が愛されている証拠は、こちらの希望するように事態が展開したり、あるいは自分の願いが叶うことではなく、伝統や枠の中にありながらも、その形に固執するのではなく、中身というか本質や真の意図を見出し、そして自分自身がさらに変えられていくということなのかもしれません。
マリアの決断
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.12.24
クリスマスを待つ季節の締めくくりの福音書は、マリアと天使ガブリエルのやりとりです。冒頭でいきなり「六ヶ月目に」と始まりますが、これはマリアの話ではなく、この箇所の直前に天使ガブリエルがザカリアを訪問し、妻エリサべトの懐妊を予告していますが、その出来事から6ヶ月を経た、という意味です。つまり胎児が安定し、生まれることがほぼ確定してから、次にガブリエルはマリアに会いに行きます。神が計画したことなのだから呑みなさい、という一方的な宣告ではなく、多少の行き違いはあっても、段取りを踏んだ丁寧な進め方という印象です。
一方、マリアに対しても神の計画のゴリ押しはしていません。ガブリエルとマリアのやりとりが、どのくらい時間をかけたものなのか、聖書は記していませんが、最終的にマリアが「お言葉どおり、この身に成りますように」と言うまで、ガブリエルは去りませんでした。しかもマリアは、反論の余地なく、恐怖のあまり承諾するしかなかったという筋立てではなく、後にマリアが「マリアの賛歌」で表現するように、何に対してこれから立ち上がることになるか、よく理解した上でその運命を引き受けたことを表しています。これから、人々の無理解と蔑視の視線、そして大きな社会的圧力の中で、戦い続ける人生を覚悟する必要がありましたが、そのことに対しての「お言葉なら」というマリアの返答であったわけです。
彼女は若い女性として、ここに至るまで、どんな祈りを捧げてきたのでしょうか。想像するのは、他国の支配に苦しみ虐げられている人々、孤独な人々に心を痛め、マリア自身もその中のひとりであったにもかかわらず、より良い社会のために何ができるだろうかと、模索する祈りであったかもしれないと思うのです。マリアにとっては、確信とともに「祈りが聞かれた」とはいう気持ちにはなれなかったかもしれませんが、思うところがあって、何が起きても神に信頼しようと腹をくくった。神さまに祈った結実が、マリアの想定していたこととかけ離れていても、マリアは神さまに信頼し、そこに生涯をかけて取り組もうと、彼女自身の意志で決断をしたその瞬間だったのではないかと思います。
召命に生きる
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.12.17
今の季節に何故?と少し不思議ですが、毎年クリスマスを迎える前に、バプテスマのヨハネの話を2週続けて聞くことになっています。聖書の話というと、イエスさまと出逢った人が「恵みを受けた」「希望を与えられた」と感謝する一方で、その事を快く思わない人々がつぶやく。そんなイメージが強いですが、バプテスマのヨハネの話は少し毛色が違います。彼の人生はイエスさまと出会って好転してゆくのではなく、あくまでも「衰える」旅路を辿ることが、自らの使命であると公言します。
それにしてもヨハネは、あえて茨の道を選んでいます。お父さんはザカリアですから、普通なら父の仕事を継いで神殿に仕える祭司となり、地位も名誉もある人生が保証されているはずなのに、荒野で寝起きし、食べ物着る物にも無頓着。そしてひたすら洗礼を授けていると、やがてイエスさまが現れヨルダン川の反対側で洗礼を授けるようになる。すると人々は、ヨハネよりもそちらへ流れていく。イザヤ書を引用し自分を「荒野で叫ぶ声」と称したヨハネですが、想像を絶する孤独と不安を味わったのではないかと思うのです。かつてはヨハネから洗礼を受けるために押し寄せた人々も失せ、荒野でいくら叫んでも、虚しい暗闇と荒れ果てた地に、叫びも彼の話も吸い取られていくばかりです。このあと彼は捕らえられ、余興のついでに首をはねられて命を失います。
人のお手本になる人生、生きた意味を実感できる人生を、わたしたちは追い求めますが、それとは真反対のヨハネの人生です。たとえヨハネが「これが自分のお役目」と納得していたとしても、これでいいのだと思えず、何も成し遂げてはいないという不安に苦しめられるときもあったに違いないのです。しかもヨハネは、イエスさまの存在と活動がこれからどうなっていくのかほとんど知ることもなく、「あの方の前に遣わされた者」として生きました。神さまからの召命に忠実に生きたヨハネは、この世的には、決して「恵まれた人」とは言えないでしょう。しかし神さまの目にはどうだったでしょうか。たとえわたしたちには納得できなかったとしても、神さまの計画の中では必要不可欠な人であったのかもしれません。
神さまの愛は注がれる
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.12.10
バプテスマのヨハネと呼ばれる人物の話をしましょう。その人は、必要最低限の衣食(住まいはなかったかもしれない)を得るだけの毎日に満足し、生活のほとんどの時間を、人々に「悔い改め」を呼びかけ、目に見える赦しのしるしとしての「洗礼」をほどこしていた、そんなふうに聖書には記しています。
もっとも「洗礼」という儀式そのものは、バプテスマのヨハネのオリジナルではなく、この時代のいわば「世直し運動」のような流れの中で、あちこちで行われていたようです。外国人や他宗教の信仰者が、ユダヤ教に改宗する際に「穢れ」を清めるといった象徴的な意味で、また、ユダヤ人共同体から離れていた人々が立ち返る場合、などに洗礼は施されました。
ユダヤ教の律法や掟は、神さまとの関係を健全化するために与えられたものなのに、指導者たちはそれを自分たちにとって都合のよい解釈へと歪め、声の出せない社会的弱者は神の恵みの対象外として潰してもかまわない、律法さえ守っていれば、心の中がどうであれ神の救いは保証される、と強調されるようになります。そんなユダヤ教に対して危機感を持ち、神への信頼に立ち返ることを呼びかけた「洗礼」は、バプテスマのヨハネのオリジナルだったかもしれません。
現代のわたしたちにとっての「洗礼」は、「自分の罪を告白し、悔い改めて罪を赦される」という側面よりは、「神さまはわたしを大切にしてくださっている」と信じて、そのことを命懸けでもたらしてくれたイエス・キリストに信頼し、キリストの薦める生き方に加わりたいと公言する、という要素が強いです。とは言え、バプテスマのヨハネが広めた洗礼と、今、わたしたちが教会の中で行う洗礼式とは、それほどかけ離れたものではないとも思うのです。
ヨハネの時代は、律法を守ることができる恵まれた人が、神さまに愛されるに相応しい者だという理解が横行し、律法学者や祭司たちは、その理解を利用しました。彼らが掌握している力関係をより強固なものにするため、献金や貢ぎ物を強制し、何よりも律法を優先するのがユダヤ教。そんなふうに神さまの愛からは、どんどん離れていく結果となりました。
当時は律法が神にとって代わっていましたが、現代では「人にどう思われるか」が、神の座にいるのではないかと私は思うのです。自分の行動基準の根源に「人から非難されたくない」という無意識の「信仰」が居座っている場合、神の愛はないがしろにされていく危険をはらんでいます。
聖書の言う「罪」とは、「本来の道から外れた、まとはずれな生き方」のことですが、それは、名前がつけられるような犯罪や間違いだけではなく、見当違いの言動や、善意ではあるものの本来の意味や目的を取り違えて、どんどん道からズレしまう生き方も含みます。わたしたちの生活の中心に神さまがおられず、人の目(自分の目も含みます)を一番大切にして、その都度やり過ごすような「的はずれ」な行動を、もしわたしたちがとっていたら「神への信仰に立ち返るように」と、バプテスマのヨハネは呼びかけます。それは、わたしたちが何も貢献出来ない状態でも、どんなに情けなくなくても、あまりにひ弱であっても、神さまの愛は注がれ続けることを信じる信仰です。見かけや言葉化できる善行にすがるのではなく、神さまへの真の信頼を取り戻したいと思います。
目を覚ましていなさい
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.12.3
さあ、降臨節が始まりました。玄関外のヒマラヤ杉の電飾は、今夜から1月6日まで毎晩チカチカと点灯を始めます。教会の中も、クリスマスの飾り付けと祭色(アドヴェントまでは紫色)に変わり、すっかり模様替え。世の中の空気はアドヴェントとクリスマスが混在しているようでもありますが、聖書のメッセージは一貫して「罪からの解放」をテーマとしているのではないでしょうか。
罪という単語を聞くと、まず顔を伏せて反省する、そして嫌な自分を見てため息をつく、何も思いつかなくても、とりあえず何かあるに違いないと探るなどなど、心を萎縮させることが先に思い浮かぶかもしれません。でも言いたいのはそこではなくて、「自分の生活を振り返ってみて、もし『道』から外れていたら神さまに立ち返る」ことが、罪からの解放なのではないかと思うのです。
日々の「騒音」に紛れ、追い詰められて自己中心的になり、愛のない言動をして心を傷つけても、「まあ仕方がない」で乗り切ろうとする。人の評価や態度に振り回され、なぜ自分が狼狽えているのか内省せず人のせいにする。そんなわたしたちの日常生活をも、神さまは受け止めてくださいますが、同時に、ハラハラもなさっている。そして「監視」しているのではなく、「見守って」おられるそのあたたかなまなざしに気づくこと。そして、わたしたちはその日その日を神様に「生かされている」ことを知ること。そのことこそが「罪からの解放」ではないかと思うのです。
楽しくない時間を過ごしていても、心に添わない仕事をしていても、そしてしっかり怠けているときにも、もしそれがわたしたちのいのちを繋ぐために必要なら、「神さまはこの時この場を、どう用いろうとされているのだろうか」と思い巡らすことは出来ます。思い巡らした結果、どのような行動を取るかはわたしたちに託されていますので、常に心の目を覚まして、神さまの方を向こうとする、そんな4週間にしていきましょう。
あなたのところに行くからね
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.11.26
教会の暦の上では、次の日曜日から新しい一年が始まるという、大晦日にあたる今日。読まれる聖書の箇所は「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」というお話です。クリスマスが近づくと思い出す絵本や童話というのは、皆さんもたくさん心に浮かぶことと思います。私にとっては、この聖書を聞くと、トルストイの「靴屋のマルチン」が真っ先に浮かんでしまうのです。よく知っておられる方もおられますが、まずそのストーリーをご紹介します。
マルチンは年取った靴屋さん。半地下にある仕事部屋で毎日一生懸命働いています。でも、心の中は悲しい涙でいっぱい。それは、パートナーもこどもたちもみんな亡くなってしまい、マルチンひとりが残されたからです。寂しさと絶望感に、マルチンの心はまるで埋もれた半地下のよう。小窓からの景色は、見えるには見えるけれど関係のない世界でした。ある晩、いつものように聖書を少し読んでから眠りにつくと、なんと夢の中でイエスさまの声が聞こえます。それだけでもびっくり仰天でしたが、その声は「明日行くからね」と言うのです。「行くからね」とは確かに聞いたけれども、単なる自分の願望?いやいやひょっとしたら本当に来られる?どうやって?と落ち着かないマルチンです。
朝になると、今まで興味がなかった小窓の外が気になり始めました。朝から雪かきをしているおじいさんが目に入りました。疲れ果てて寒くて震えています。思わずおじいさんに声をかけてお茶をごちそうします。次に赤ちゃんを抱えて家を飛び出してきた女の人が目に留まりマルチンは自分の上着と朝ご飯の残りを差し出します。そして今度はこどもです。その子は確かに盗みをしたのですが、事情を聞こうともせず愛のない方法で一方的に叱られています。マルチンが割って入り一緒に話をしているうちに、両者がやさしい気持ちを取り戻して帰っていきます。
ここに登場するおじいさんや若いお母さんや男の子にとっては、マルチンこそがイエスさまだったかもしれません。途方に暮れ、世の中の誰も味方になってはくれず、自分は神に見捨てられていると確信したそのときに、必要なものを与え、寄り添ってくれる存在は、まさに神そのものに感じられたことでしょう。しかし、お茶や食事や上着が与えられることが重要なのではなく、途方に暮れているその人々に、イエスさまはすでに寄り添っておられる、その事実にわたしたちが気がついたとき、人生の視点が根こそぎ変わっていくのではないでしょうか。毎日が涙と悲しみと寂しさで手一杯だったマルチンは、夢の中の「行くからね」のひと言で、「すでにイエスさまが寄り添っておられる人々」へと目が開かれていきます。
こども食堂やフードパントリーやその他の活動が行われること、そして互いを理解しようとする輪が広がっていくことは、決して「良い人ぶって」いるのではなく、すでにイエスさまがその人と共に働いている、というとてもシンプルな事実に気付かされていくことです。そしてわたしたちもどんなときでも(ことに人生最悪のとき)、決してひとりぼっちではないことを確信していくのだと思います。あなたにも、「行くからね」というイエスさまの声が届きますように!
タレントはだれのために
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.11.19
またもや「天国」のたとえ話ですが、今度はタラントン(とりあえずここではお金の単位)の登場です。3名のしもべに、主人が財産を託して旅に出ます。最初のしもベには5タラントン、次のしもべには2タラントン、そして三人目には1タラントンです。最後の1タラントンだけを預かるしもべは、なんだか金額が少なくて、かわいそうな気もしますが、それだって、大変な金額です。1タラントンは、現代社会に換算すると、約1億円。一生かかっても、なかなか貯められないような、気の遠くなる大金です。
しかしこれは、お金のことを語っているのではないのでしょう️。神さまからいのちを受けて、この世に送り出された、わたしたちのいのちそのものを言っているのではないかと思うのです。一生努力しても、わたしたちには作り出せない「いのち」を預けられましたが、それだけでも気の遠くなるような恵みです。自分は一体何をお預かりしているのだろうと考えると、体力や能力、感性や才能などが、認識しやすいタラントン(タレント)なのかもしれません。それらを預かっていることを喜び、みんなと分かち合おうとする人がいる一方で、自分のタラントンに不満な人もいます。ことに「タレント」を他人と比較して「自分はこんなにつまらない」と思う。自分は1タラントンしか預けてもらえなかった、こんなものが役に立つはずがない、と思い込み、1タラントンを喜ぶことも、人のために用いることも考えず、なんだかばかばかしくなって、ただ土の中に埋めるようなことをしてしまったのかもしれません。
でも、今あるいのちは、わたしたちが生み出したものではなくまた所有しているものでもなく、一時的に神さまからお預かりしているものです。預けられたいのちは、時が来るまでは、この地上で頑張り続けることが使命ですが、それは、2タラントン預かっている人を羨ましがることではなく、5タラントン預かった人に敵対心を燃やすことでもなく、気の遠くなるほど豊かな1タラントンを人々のために用いるよう、知恵を絞ることではないでしょうか。
油を満たしておく
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.11.12
花婿の到着を待っている間にウッカリ寝落ちし、ずっと到着を待っていたのに、夜中になってから起こされ、予備の油を持っていなかったために、宴席から締め出されてしまう乙女たち。喩え話とは言え、天国も結構冷たいじゃないかと言いたくなります。
ところで登場する5人の賢い乙女と、5人の愚かな乙女ですが、この人々は主役ではなく、花嫁の付き添い人という役割です。また、手に持った「ともし火」に、最初から火が灯っていたのではなく、棒の端に油の付いた布を巻き付けてスタンバイし、花婿が到着したら、すぐに婚礼行列や会場を照らすため、また宴の中で披露する「たいまつの踊り」などのため、朝までずっと灯りを途切れさせない、という担当も兼ねていたのでしょう。
そう考えると愚かな乙女たちは、夜中まで待たされたから、用意した油を使い果してしまったのではなく、最初から予備の油壺どころか、油そのものを持参していなかったことが明らかとなります。布にあらかじめ染み込ませた油はすぐに尽きますが、そのあと、どうするつもりだったのでしょう。最初から「借りればいい」と思ったのかもしれませんが、では花嫁付き添い人としての役割を、いったい何と心得ていたのでしょうか。他の乙女と一緒にたいまつさえ振り回しておれば、誤魔化せると思ったのでしょうか。
共通点があると思うのは、外見以外はあまり気にならない律法学者やファリサイ派の人々の言動です。「油」は、神さまに対する信頼を深め続けることや、愛に根ざした信仰かどうか振り返ること、などに置き換えられるかもしれませんが、目に見えないそれらには関心がなく、たいまつさえ持っていれば乗り切れると考えるあたり、先週の福音書に登場した「長い裾の上着」や「大きな聖句の小箱」の大好きな指導者層のようです。今回の話は、「賢い乙女たちを見習え」と勧めているのではなく、また、天国では準備の良い人が優遇されるという話でもなく、愚かな乙女(=指導者層)のようなうわべを求めてはいけない、むじろ本当の油のために、他ならぬ自分のために「信仰を深めなさい」と伝えているのではないでしょうか。
愛で満たされる
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.11.5
今日の物語では、ユダヤ教の指導者たちの「痛い」振る舞いが記されています。聖書に精通しているしるしとして、聖句を書いた羊皮紙を丸めて箱に納め、それを紐のようなもので額に固定するという習慣がありましたが、これみよがしに箱を大きくして、特別の役割を担っていることを人にわからせようとします。また、裾に長いフサを縫い付けた外套を着て歩き回り、肉体労働者ではないことを誇示します。そして、人がたくさんいる広場で「先生!」と呼び止められ、皆の注意を引きながら丁重な挨拶を受ける、そんな待遇を好むような指導者たちです。滑稽にも感じますが、知識が豊富だったり、祈りの機会に恵まれていたり、知名度がある、ということが、まるで神さまに近い存在なのだと勘違いしていたのでしょう。
しかしわたしたち聖職者も、滑稽だと笑っていられない気がします。有名な聖職者のご家族だったり、学位をたくさん持っていたり、複数の言語に通じていたりすると、なんだか失礼があってはいけないような空気になります。一方で、他の教役者たちを「〜先生」と呼んでいる人から、たいして親しくも無いのに、自分だけ〇〇子ちゃんなどと呼ばれると、ちょっとムカついたりします。つまり軽んじられることには敏感で、持ち上げられても気が付かない鈍感さが心に潜む可能性について、いつも目を覚ましている必要があると思うのです。
イエスさまの時代の人々の常識としては、律法を厳守し、献金や断食の回数が多いことが、救いを保証する目安だったのかもしれません。しかし、イエスさまが教えてくださった救いは、外見ではなく「神と人に仕える」ことによってのみ、わたしたちは限りない恵みを注がれ、究極の「救い」がそこに用意されているという信仰です。人にわかってもらえる信仰が必要なのではなく、ただひたすら「心が、神と人への愛で満たされている」ことが重要なのではないでしょうか。それは見てわかりやすいことではないでしょうが、祈りと行動とに自然に現れてくるでしょう。愛で心を一杯にして生きること、それこそが神さまが望んでおられる生き方なのではないでしょうか。
究極の目的
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.10.29
イエスさまの存在を、快く思わない人々による反撃のお話が、今週も続きます。先週の福音書の後には、もう一つ別の話があり、そこでイエスさまは、サドカイ派の人々のツッコミもかわしたので、今度は律法の専門家が登場するという構成になっています。「律法の中で何が最も重要か」というその質問は、物理学者が一介の大工に「相対性理論をどう思うか」と聞くようなものかもしれません。「先生」と呼びかけてはいますが、民衆に人気があるだけで、専門家である自分に太刀打ちなどできるわけがないというこの人の魂胆も見えます。
ユダヤ教としては、「十戒」は手を触れられない聖域であり、すべての決まり事の根幹なので、何か別の掟に寄って十戒が成り立つとは、考えにくいことでした。ところがイエスさまは、いとも簡潔にその壁を乗り越えてしまいます。しかし、新しい宗教を産み出そうとしてこう言われたのではなく、抑圧されている人、貧しさゆえに悲しみや苦しみを負っている人と、共に歩もうとされるイエスさまにとっては、十戒のために人間が存在するのではなく、人間のために十戒が存在する、ということが当たり前だったのではないでしょうか。いわば十戒は、目的を実現する方法の具体例であり、その方法を実行したら、その先に何があるのかというと、「神を愛すること」「隣人を愛すること」であると。言い方を変えれば、この2つの目的のために十戒が存在すると言っているわけです。
「あなたは神と人を愛することを最も大切にしていますか」と、わたしたちもまた、イエスさまから聞かれているのでしょう。そうしたいと思っても実際は、自分の欲と他者の視線、諸々のプレッシャーや「こうするべき」という嵐の中で、時々は神さまの声に耳を傾けてみようかと立ち留まる生活、それが現状なのかもしれません。それでも、何のために自分はここにいるのかと迷い、何故こうなったのかわからなくなるとき、ふと立ち返って自分に「今、わたしがやっていることは、神と人を愛するためか」と問うてみたいと思います。そのあとに、わたしたちがどのように決断しても、神は最後まで見守ってくださると信じます。
究極の目的
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.10.22
イエスさまの存在を、快く思わない人々による反撃のお話が、今週も続きます。先週の福音書の後には、もう一つ別の話があり、そこでイエスさまは、サドカイ派の人々のツッコミもかわしたので、今度は律法の専門家が登場するという構成になっています。「律法の中で何が最も重要か」というその質問は、物理学者が一介の大工に「相対性理論をどう思うか」と聞くようなものかもしれません。「先生」と呼びかけてはいますが、民衆に人気があるだけで、専門家である自分に太刀打ちなどできるわけがないというこの人の魂胆も見えます。
ユダヤ教としては、「十戒」は手を触れられない聖域であり、すべての決まり事の根幹なので、何か別の掟に寄って十戒が成り立つとは、考えにくいことでした。ところがイエスさまは、いとも簡潔にその壁を乗り越えてしまいます。しかし、新しい宗教を産み出そうとしてこう言われたのではなく、抑圧されている人、貧しさゆえに悲しみや苦しみを負っている人と、共に歩もうとされるイエスさまにとっては、十戒のために人間が存在するのではなく、人間のために十戒が存在する、ということが当たり前だったのではないでしょうか。いわば十戒は、目的を実現する方法の具体例であり、その方法を実行したら、その先に何があるのかというと、「神を愛すること」「隣人を愛すること」であると。言い方を変えれば、この2つの目的のために十戒が存在すると言っているわけです。
「あなたは神と人を愛することを最も大切にしていますか」と、わたしたちもまた、イエスさまから聞かれているのでしょう。そうしたいと思っても実際は、自分の欲と他者の視線、諸々のプレッシャーや「こうするべき」という嵐の中で、時々は神さまの声に耳を傾けてみようかと立ち留まる生活、それが現状なのかもしれません。それでも、何のために自分はここにいるのかと迷い、何故こうなったのかわからなくなるとき、ふと立ち返って自分に「今、わたしがやっていることは、神と人を愛するためか」と問うてみたいと思います。そのあとに、わたしたちがどのように決断しても、神は最後まで見守ってくださると信じます。
神は語らせてくださる
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.10.22
イエスさまがたびたび語る「天国のたとえ」を通じて、偽善と保身と、そして立場の弱い人々に対する搾取を、コテンパンに指摘されてしまった指導者たちが、反撃に出る場面が今日の福音書です。イエスさまに、仕返ししてやろうという魂胆も大人気ないですが、それよりもイエスさまから攻撃されたと感じ、何よりも自分たちの今の立場が危うくなることを、心配したのでしょう。普段は対立しているヘロデ派の人々と結託し、「よい」か「だめだ」の2択で答えざるを得ない質問を用意して、手下の者たちを送ります。イエスさまが「よい」と答えるならば、猛反発を買い民衆は離れていくだろう、「だめだ」なら、ローマ帝国への反逆の証拠として、逮捕へ繋がると。つまりどちらの答えを選んでも、イエスさまにとっては致命的だ、と指導者たちは確信したわけです。
ところがイエスさまは、「よい」でも「だめだ」でもない、別のお返事をされます。下心満載の指導者たちをやり込めるのは、読んでいてスカッとするし、こんな短時間(?)で、どちらともつかない返事を考えつくとは、なんてイエスさまは頭が良いのだろう、と感心するかもしれません。でも、この話はそれだけなのだろうか。さすがイエスさま!とかいうことが、果たしてわたしたちの魂を救うことに繋がるのでしょうか。また神のものは「神に返す」とは具体的に何なのか、という疑問も生まれます。
指導者たちの上を行く、スマートな応答をイエスさまが考えついたということではなく、「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。言うべきことは、その時に示される。」(マタイ10:19)という信仰に、徹底して留まられたのではないかと思うのです。つまり、「私が」語る、応答する、というこだわりから解放されて、全てのことは神さまの霊が実現させてくださる。自分を通して必要な言葉が語られ、どのように応答したら良いのか知らせてくださる、ということを、イエスさまが自然に実践された、ほんの一部の物語なのではないかと。
それは、自分で考える必要がないという意味ではなく、わたしたちの普段の祈りの生活へと繋がる物語なのではないかと思うのです。
天国に生きる人は
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.10.15
「天国」についての話は、今週はぶどう園ではなく、結婚式のたとえ話として続きます。イエスさまの時代の結婚式は、何日も披露宴が続き、庶民にとっても大イベントだったようですが、このお話は王が主催する婚宴です。惜しみなく資金を注ぎ、たくさんの人々を予め招いていたのでしょうが、さて用意が出来てみると、誰一人参加しようとしません。
王様は家来を送り「さあおいでください」と人々に伝えますが、本来招かれていた人々はそれを無視し、家来をひどい目に遭わせ、殺害さえします。これを聞いた王様は、「見かけた人を誰でも連れてきなさい」と家来に命じます。やがて宴会場は人でいっぱいになりますが、ここでも問題が起きました。せっかく用意された結婚式の礼服(当時の習慣では主催者の責任として、来た人皆に礼服を用意した)を意図的に身につけず、何故か着ないのかと問われても、黙って座っている人がいたのです。
言うまでもないことですが「予め招かれていたが婚宴に来なかった人」とは、ユダヤ教の指導者たちです。彼らは自分たちこそ招かれるのに相応しく、神の目にも叶う相応の生き方をしていると自負しています。そんな指導者たちのところに遣わされた家来とは、旧約聖書に登場する預言者たちなのでしょう。しかし指導者は、自分たちにとって都合のわるいことを言う預言者たちを滅ぼし、そうとは気が付かずに神さまを敵に回します。
そこで神さまは、縁者でも友人でもなかった人や異邦人を招きます。お腹を空かせていた人、心の乾いていた人、孤独な人、そして自分なんか神の国とは関係ないと思っていた人たちは嬉しかったことでしょう。喜んで神さまの婚宴に連なります。しかし中には「礼服を着けず黙って座り、何も答えない人」がいました。礼服を着けることを拒否した人、つまり神さまからの愛や恵みは受け取るけれど、自身では愛に生きることを実行しようとしない人です。
立派な行いや間違いのない生き方を実行できた人のために天国が用意されているのではなく、たとえ最初は招かれていなかったとしても、「愛に生きる」という礼服を用意してくださっているイエスさまの招きに、応える人のためにある。礼服を着るかどうかは、わたしたち次第です。
天国はすでに在る
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.10.8
この季節に指定された聖書箇所は、天国をぶどう園に喩える、というイエスさまのお話がしばらく続きます。
ある人が理想的なぶどう園を作ります。整地された畑、遠くまで見通せるやぐら、野獣から作物を守る塀、そして収穫を迎えたときのしぼり場まで備えたところで、ぶどう園の仕事に慣れている農夫たちを雇って運営を任せます。しかしこの農夫たちは、運営を任されたという事実を忘れ、やがて収穫を迎えたときには、所有者から送られたしもべを、侵入者とみなし残酷にあしらいます。ところが所有者は、この農夫たちを断罪せずに根気強くしもべを送り続け、最後に大切な息子を送ります。そして農夫たちは、この息子さえ亡き者となれば、「自分たちの」財産は守られるという勘違いから、息子も殺してしまいます。
皆様もお察しのとおり、この農夫たちは、当時のユダヤ教の律法学者や祭司のことです。 “農夫”としての役目を忘れ、まるで自分が創り出し、所有しているかのように神の言葉を扱う。その振る舞いにより、人々が苦しんでも、自らの立場を守ることを最優先してきたのです。しかし神さまは、彼らを滅ぼすのではなく引き続き預言者を送り、その勘違いを糺そうとされました。しかし、既成の組織や制度にしがみつく彼らは、いくらたくさんの預言者を送られても、一向に考えを変えなかったので、神さまはついに最終手段として、いわば断腸の思いでイエスさまを送ります。しかし、自己防衛をするにはイエスを亡きものとするしかないと、“農夫”たちは十字架にかけてしまいます。
なぜこれが「天国」の話?とお思いになるかもしれません。でも天国は、死んでから行くところではなく、手の届かない理想郷のことでもないのです。むしろ、神さまの優しさと忍耐強さと公平が実現されている「天国」はすでに存在するのに、わたしたちが「天国」を所有しようしたり、利用しようとしたりするとき、見えなくなってしまうというメッセージではないかと思うのです。
イエスさまが教えてくださった「神」は、あなたが幸せに生きること以外、何も望まれない。そして、その実現のための代償や報いは一切求められない。他の人がなんと言おうと、あなたを慈しみ、大切にしたいと切望する。そんな無条件の愛の神です。それは、「天国」という代名詞により、丁寧に創られたぶどう園のように、すでに準備されていることを心に留めましょう。
神への応答
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.10.1
聖書のこの箇所は、「二人の息子のたとえ」というタイトルがついているが、本田哲郎神父訳では「たてまえだけで実行の伴わない指導者たち」となっている。原文にそのようなタイトルがついているわけではないが、「娼婦や徴税人」たる最下層の人々と、彼らを抑圧する権威があると信じ込み、そのような振る舞いをしても一向に恥じない指導者たちとを対比するたとえ話であることは、明らかである。彼らは、自分たちこそ選ばれし者、この世の人生を終えたら必ず天の国に迎え入れられるので、今さら自らの行状を糺す必要もないと考えているようでもある。
先日、ある勉強会で原始キリスト教とローマ帝国の関係について社会学的なアプローチをする本を読んだが、その中で「ただ乗り」の人々が教勢に与える影響が言及されていた。つまり初代教会時代にも、キリストの教えに共感し、神の愛や恩恵には当然のようにあずかるが、共同体に対しては何の貢献もせず、責任を取らない人々がいたようで、それを著者は「ただ乗り」と名付けている。
教会建物や教役者維持に加え、電気光熱費や消耗品の支払いは必須だし、礼拝ひとつ行うにも、さまざまな役割を担う必要がある。静かにお祈りだけしていたいと願う人に対し、時に一種の疲労感が漂うのは、わずかな貢献をしていると自負する人々もまた、神の前には全くの「ただ乗り」である現実を忘れているからではないか。
イエスさまが教えてくださったのは「あなたが幸せに生きること以外、何も望まない」「代償や報いは求めていない」「社会的な貢献の度合いではなく、いのちそのものが大切」という神。無条件の愛、限界のない豊かな世界を共有しようとする神に、わたしたちはお返しをするどころか、単にそれに「ただ乗り」しているに過ぎない。そういう意味では、「ただ乗り」を人々に提供する限り、教会は教会であり得るということなのかもしれない。経済的にも労力的にも決して余裕はなくても、走り続けられるよう祈るしかない。それがわたしたちの神への応答なのではないか。
目が「腐らない」ために
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.9.24
現代社会では、到底受け入れられそうもない「ぶどう園」の話です。天国では、1時間しか労働に従事しなかった人も、まる一日汗水流して働いた人も、1日分の賃金1デナリオン(5千円程度)を受け取ります。もしパートの仕事をいくつも掛け持ちして、必死に生きている人がこれを聞いたら、最初から夕方頃にぶどう園に行く計画を立てるかもしれません。夜はしっかり寝て、朝から一日中別の仕事、そして夕暮れ近くになってぶどう園へ駆け込み、最後の1時間だけ働く。そしてフルタイムで働いた人と同じ金額の賃金を受け取る、それが賢い生き方ということになるのでしょう。
しかしながら、このぶどう園の話は、「神さまと出会って平安が与えられる」という1デナリオンの話であることは明らかです。神さまの悠久の時間に比べ、わたしたちの生涯はほんの一瞬に過ぎませんが、一生をかけて神さまと一緒に歩いてきた人も、散々放蕩の限りを尽くし生涯の最後に駆け込みで神さまと出会った人も、全く同じように永遠の命が与えられ、もれなく天の国に迎え入れてくださる神について語っています。ところが、1日中重労働と酷暑を耐えて働いた人は、同じ扱いでは不満だと言います。「妬むのか」(16節)という語は、「あなたの目は腐っているのか」という意味のギリシア語が使われています。つまり、わたしたちの永遠の命や魂の平安は、神さまから恵みとして無条件に与えられたのに、それを自分の努力の結果だと思い込む誘惑や間違いについて語っているのではないでしょうか。
昔々、病院のチャプレンをしていた時に、一人のホームレスの高齢男性が入院してきました。海辺の公園で何十年と野宿をしてきたので、入院してからも、医師や看護師がベッドに近づくだけで、身体を硬直させて怖がりました。それは、公園に住む彼に近づいてくる人々は、彼に危害を加える存在だったからです。しかし時間が経つとだんだんと表情が和らぎ、人生の夕暮れ時になって人との関わりを平安のうちに受け入れられるようになり、そのあとすぐに洗礼を受けて旅立っていかれました。この方は、社会の片隅に隠れるようにして生きてこられ、「一日中」ぶどう園で働くことはできませんでしたが、まさに日没1時間前に間に合って、思いやりある人々と出会い、平和な心と共に神さまの元へと旅立った。そんな神さまの業を、人々に伝える役割を果たしたと思うのです。
ゆるしについて その2
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.9.17
先週に引き続き、再び「ゆるし」の話が続きます。今日の聖書は少し長いので、皆さんの“気になるポイント”は異なるかもしれませんが、まず冒頭の「7の70倍(回)まで赦しなさい」というイエスさまの言葉に圧倒されます。赦せない内容によっては、たった1回さえ断腸の思いなのに、490回?とは気の遠くなる数字です。
そもそも「赦す」という行動は、人としての成熟度を必要とすることがらで、水に流したり忘れた気分になるということでもない、また相手の行動を容認するのとも違う、そして「こうすれば赦したことになる」という模範解答もない、そんな難易度が高いことがらであることは確かでしょう。
さて今日の福音書です。主君によって膨大な借金の返済を「帳消し」にしてもらった家来が、今度は自分が金を貸している知人に出会うと、貸した金をすぐ返せと要求します。返済できないから待ってくれと懇願する知人を、家来は聞く耳持たず牢獄に入れてしまう。するとこれを知った主君は怒り、赦したはずの家来を牢獄に入れるというストーリーです。
「赦し」の話を、金の貸し借りに絡めるのは、なんとも違和感がありますが、生涯かかっても返せないような膨大な借金(1万タラントン=1兆円)から解放された人が、その恵みの豊かさに触れようともせず、頑張れば返せる程度の貸金(百デナリ=50万円)に固執する、その愚かさを描いているのかもしれません。最終的に家来を牢獄に入れた主君は、「赦す」と言った前言を翻したのではなく、無慈悲な家来の行動に対して「牢獄」に入れるという措置をした展開なのでしょう。
家族も家財もすべて売り払って借金を返せと迫ること、そして期日までに返済できない人を牢獄に引き渡すことは、当時の法律では「合法」だったようです。そういう意味では、家来は犯罪をおかしていません。しかし負債から解放された途端に、自分の負い目は初めからなかったかのように振る舞い、すぐに利害追求に取り掛かる。そんな生き様は「牢獄に閉じ込められた」人のようだと言っている気がするのです。
神さまに愛されているのだから恵みの偉大さに目を留め何でも許容せよ、と聖書が勧めているのではなく、本当の神の寛大さに触れたわたしたちは、その恵みを直視し受け止めるとき、更なる的成熟へと招かれていく、と言っているのではないでしょうか。
ゆるしについて
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.9.10
約束を忘れてしまった、他人の持ち物を壊した、そんなときに「ごめんなさい」とわたしたちは言いますが、それは「赦してもらおう」「きっと赦してもらえる」と思うから、口に出すことができるのだと思います。その一方で、相手が赦してくれるか本当にどうかわからないときの「ごめんなさい」は気が重く、断られる覚悟をしないとなかなか言えるものではないでしょう。取り返しのつかないこと、人生を変えてしまうような傷を負わせたときは、「相手に対して赦しを乞う」という考え自体が厚かましいと感じ、「赦してほしい」などとても言えないということに。そんなとき多くの人は、物事の本質を直視するより、法的制裁や相手が矛先を収めてくれる道を探し、それによって自分の出方を測るのかもしれません。
たとえ法律によって「犯罪」と断定されなくても、賠償を要求されなくても、わたしたちはまず「神さまにとっては何が起きたのか」を中心に考える必要があるでしょう。何故このようなことになったのか、自分の何が間違っていたのか、そして取り返しのつかない事実から自分は何を学べばいいのか、祈って祈って向き合う、ということなのだと思います。
今日の聖書は、自分が赦しがたいことをしてしまった場合ではなく、赦しを乞うべき人に対して、どのように願うべきなのかを語っています。それは、過失を犯した人をわたしたちが対岸の火事として眺めるのではなく、火の粉が飛んでこない対策にあくせくするのではなく、自分に同じようなことが起きる可能性をも含んだ話なのだと思います。それは、愛をもって率直に忠告しても、結果的にその人が聞き流すようであれば、あとは神の働きに委ねてみましょうということです。それは外見からは「諦めた」ようにも見えますが、関わりを拒絶するのではなく、その人が回心した時にはいつでも話を聞く心の用意がある状態です。
わたしたちは、ひとりでは「祈る」ことさえ難しいときがあります。でも、神さまを信じる者が二人三人と集まったときにやっと祈ることができるように、「罪」を犯した人に対しても、自分の力ではなく、神さまの働きを信じ続ける人が二人三人と集まって祈るとき、神さまの願いが実現していく、と語られているのではないでしょうか。
よびかけに応える
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.9.3
「そんなことは認めない」イエスさまから、これから起きる出来事の内容を告げられたお弟子さんたちは、こう思ったに違いありません。イエスさまについていけば洋々たる未来が広がっており、礼拝に連なる人の数も増え、教えの正しさが伝わり、いつかはローマ帝国でさえひざまずく、そんな未来を描いていたのでしょう。しかし事態は、思いがけない展開へと滑っていきます。「十字架にかけられて殺され、三日目に甦る」イエスさまが打ち明けた内容は、到底受け入れられるものではありませんでした。これから起きることだと言われても一体何を言っているのだろう、と頭の中が真っ白だったことでしょう。
同列にはできないとしても、予想とあまりに違うことが起きると、わたしたちの頭の中は真っ白になります。重篤な病気の宣告だったり、家族に関するとんでもない予定変更だったり、絶対にこうなると信じていたことが白紙に戻されたりする事態です。受け止め切れないほどの不安や喪失感は、大きな怒りとして表現されることも多いですが、時には、本質とは全く違うことを問題にして、現実に直面するのを避けようとする、そんな自身の弱さや小ささと出会ってしまうこともあります。
現代では、弱さや小ささは退治しなければならない対象ですが、イエスさまはむしろ、「弱さや小ささと共に歩こう」と呼びかけます。十字架刑というご自分に課せられた苦痛よりも、残されていくお弟子さんや民衆を心配されていますが、それは、病人を癒し、魂の渇きを満たす、力ある輝かしいイエスさまだけを見つめてきた人々が心配だからです。イエスさまが示された神は、弱さや小ささを退治してこいと命令する神ではなく、もろさ、弱さを持ったままで、「背負った」まま共に歩こう、と呼びかける神です。お弟子さんや民衆だけではなく、わたしたちもまた、そのように招かれています。良い子のわたしとして神の前に立つのではなく、自分では認めたくないような弱さにも目を覆うことなく真っ直ぐ進むこと、それが神さまへの本当の信頼なのかもしれません。
岩盤まで寄り添う神
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.8.27
ニワトリが鳴けば「あなたのことなど知らない」と言い放ち、急にイエスさまが出現するとビックリして湖に飛び込む。そうかと思うと、「小屋を3つ建てましょう」などと場違いなことも口走る。イエスさまの最も身近にいたのに、思慮深いとは言えないその言動を、聖書にたくさん記されてしまっているこの人を、イエス様は「あなたはペトロ(岩という意味)」と命名します。
シモンというのがこの人の元々の名前ですが、イエスさまの「あなたは岩だ」との言葉により、シモン=ペトロと呼ばれるようになりました。それにしても、なぜこの人が「岩」なのでしょうか。行動や言葉からは想像し難いですが、「実はこの人は、岩のような堅固な信仰を持っているのだ」と、イエスさまが見抜いていたということでしょうか。
この後、皆が安心して教会に集い礼拝を捧げることができる日が来る前に、まずキリスト教徒への「迫害」が数百年続きます。今のように情報網が発達しているわけではなかったので、イエスさまの名を口にすると徹底して同じ処罰を受けるわけではなかったものの、命の危険は常にありました。こんな中では、表面や見た目だけを整えた「信仰」や「教会」では、簡単に「陰府の国」に引き倒されたことでしょう。万人に理解しやすい福音、そして中身は問わずにまず何でも受け入れる、という姿勢は大切ですが、それは他者に目を向けたときのこと。教会のしくみや制度ばかりではなく、自身の信仰や神さまに対する信頼まで、「そのままで問題ない」と放置を決め込むと、それは砂浜の上に立てた信仰、空中に浮かぶ信頼のよう。お天気が良い時は大丈夫でしょうが、嵐が来れば、あっという間に消えるかもしれません。
砂の表面にではなく、心の岩盤に到達する信仰へと導いてくださる神さまは、岩盤とはほど遠いシモン=ペトロに寄り添い、人々を「岩盤」へと導く器として、敢えてこの人を用いられました。わたしたちも、自分の普段の行状から「自分の信仰は薄い」と決め込んでガッカリし諦めるのではなく、シモン=ペトロをも用いられ、わたしたちの頑な岩盤にまで寄り添ってくださる神さまの愛の深さに信頼したいと思います。
信仰は「宗教」を超える
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.8.20
福音書には、さまざまな「部外者」が登場しますが、それはユダヤ教の言う「正統な律法」を守って生活することができない人々への区分でもあり、いわゆる外国人だけではなく、病人や障害を負う人も、そして今日登場するカナン人も、律法に照らし合わせると「部外者」です。
カナン民族の元を辿れば「ノアの方舟」のノアに辿り着くように、「乳と蜜が流れる」と称される土地に、カナン人もイスラエル人も、実際は共存していたようですが、カナン人が持ち込んだとされるバアル神やアシュラなど豊穣をもたらす宗教を、ユダヤ民族は強く警戒しました。宗教への混入を避けるため、カナン人と付き合わないだけではなく、時を経てそれは「正当な差別」となり、何かあっても助け合うということはような関係にはなりませんでした。
このような歴史的背景のあるカナンの女性が、かまわず助けを求めてきたのですから、イエスさまがちょっと困惑するもの無理はありません。どう応えたものかと迷っているうちに、お弟子さんたちは「この女を追い払ってください」と追い討ちをかけます。
しかしわたしたちにとって最も気になるのは、「子どもたちのパンをとって子犬にやってはいけない」というイエスさまの答えでしょう。これが「イスラエルにしか遣わされていない」という意味なら、地球上の大多数の人間は、困ったときも「あなたには遣わされていない」と言われてしまうのでしょう。
しかしイエスさまは、この女性をカナン人だからという理由では排除しませんでした。また、この女性の宗教を変えさせようともしませんでした。彼女のひたむきで真っ直ぐな願いを認知し、尊厳ある人間としての求めを聞いた。それは、カナン人だろうと、両民族がどういう歴史を辿っていようと、「他者の痛みに共感して応える」、それこそがイエスさまの「信仰」だったのではないかと思うのです。
わたしたちも常識の範囲を超えた何かと出会うとき、「えっ?!」とまずは絶句するかもしれません。でも心を落ち着けて、イエスさまはどうなさりたいだろうかと思うとき、こちらの宗教を押し付けるのではなく、わたしたちの信じる神はどうなさりたいか考え、まずそこから出発する、それがわたしたちの「信仰」ではないでしょうか。
不安に駆られるという誘惑
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.8.13
今日の福音書は、神さまに信頼し切れず、しかしイエスさまが言われるから、こわごわと足を踏み出す、ところが本当に支えてくださるのかどうか不安になり、水の中に沈没しかける、という中途半端なお弟子さんの「信仰」のようすが描かれています。でもこれは、他人事ではないかもしれません。
わたしたちも日常的に、「どうしたら生き残れるか」「どうやって経済的に乗り切るか」と頭を悩ませます。もちろん、客観的な計算や、冷静な事実確認は必要ですが、それだけでは乗り切れないこともたくさん起きます。もうできることは全てやり尽くし、あとは一体どうしたらいいのか途方に暮れる、という状態に直面することも、一度や二度ではないかもしれません。
教会の働きの根本にあるのは、まずはひとりひとりの「信仰」と呼ばれる、神さまへの信頼の深さですし、できれば教会に連なるクリスチャンは、信仰を深め、神さまに信頼して生きていきたいと願っています。今日の話のお弟子さんたちのように、「溺れるかもしれない」「イエスさまはどういう状況か、本当にわかって言っているのか」「本当にわたしを愛してくださっているのか」という疑念と不安をぬぐえず、神さまの力を疑いながら船の外へと、一歩を踏み出す生き方はどうなのでしょうか。しかも「イエスさまがそう言ったから」と、自分のせいではないと言い聞かせながら、前に進もうとするお弟子さんの姿は、わたしたちへの警鐘かもしれないと思います。何も考えないで人の言うとおりに行動することや、周りの圧力に屈することへの警鐘でもあるでしょう。嵐の中、不安になるのは当然です。不安による思考停止もしばしば起きるでしょう。でもわたしたちは、神さまへの盲信ではなく本当の信頼を深める時、冷静に判断できるようになるのではないでしょうか。どういう状況になっても、先が見えにくくても、まず神さまに信頼することから出発しましょう。
イエスさまの「神性」
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.8.6
父なる神さまは、そうそう手が届かない崇高な存在だと感じる一方で、イエスさまはいつもわたしたちの身近にいてくださる存在。人間社会の葛藤や喜怒哀楽を理解し、重荷を分かち合ってくださる、そんなイメージがあります。「神」というよりは、信頼できる友だちのようで、何でもお話しできるイエスさまですが、「人」としてだけでは説明できない一面もあります。そこを何とかしようとして、たとえば一人の人間の身体の「頭」部分が「神性」であり、「首以下の身体」が「人性」であるというような説明をしたり、「そうなると、体の10%が神で、90%が人か?!」「イエスさまの中の神性と人性が対立する可能性は?!」などという大論争を経たのちに、現在では「イエスさまは完全な人間であり、同時に完全な神である。その意志は1つで揺るぎない」ということになっています。
しかし何故そんなややこしいような「イエスさまの説明」が必要なのか、わたしたちを見守ってくださる存在として、素朴に受けとめればよいではないか、という声もあるでしょう。でも、イエスさまを人間の枠だけに閉じ込めてしまうと、今度は「神」(神性)との分離が起きてしまうのではないかと思うのです。神が人間のかたちをとって地上に降り立った。でもそれは、神の化身が降り立ったのではなく、神本人であった、というところが肝なのかもしれません。
今日の福音書ではモーセとエリヤが現れ、イエスさまと三人で話している様子が語られます。でも話の内容は、将来やって来る天国や神の支配についてではなく、「エルサレムで遂げようとしておられる(惨めな)最期」についてでした。讃えられ崇められ、皆が好まれる「栄光」ではなく、誤解され見捨てられ軽蔑される出来事が待っていても、それでも喜んでいのちを差し出す「栄光」を、自ら引き受けられた。それがイエスさまの「神性」だと言っているのだと思うのです。計り知れない大きな愛をもって、わたしたちのかたくなさの闇の中に降りてきてくださるために。
神の国と出会うには
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.7.30
からし種は実際、胡麻粒より小さく薄いのだそうですが、土に植えられて芽を出すとやがて枝を張り、鳥が止まるような木に成長する生命力が秘められている、また、パン種(酵母)を粉に混ぜ込み発酵すると、最初の粉の量からは想像もできないほどの大きさに膨らむ。ここまでは、神の国の外からは見えない秘められた力について語っていると思います。
ところが44節以下になると、神の国そのものではなく、神の国をどこに捜すのか、という話になってくるのでしょう。畑に宝が露出して置かれているわけではないが、見た目は真価を感じられないような荒れ果てた土地の中に神の国はあると宣言します。土を掘り、石をどけ、作物を作るのに相応しい土壌を作る過程で、必ず「宝」と出会うと伝えています。
効率ということが最優先の社会に住んでいるわたしたちは、結果が期待できること以外に時間を費やしてしまうと、なんだか失敗した気持ちになりやる気も失せます。荒れ果てた畑の中に宝などあるはずがないと、見向きもしないかもしれません。そこに宝があるという保証もないのに、荒れ果てた畑を耕すのは、かなりの覚悟が必要でしょう。しかしイエスさまは、荒れ果てた土地も労を惜しまず耕しなさい、とだけ言っておられるのでしょうか。
自分が「畑」なのか「耕す人」なのか、どちらに身を置くかにもよるのかもしれませんが、たとえわたしたちが、「自分は、荒れ果て捨てられた畑のようだ」と感じていても、イエスさまはわたしたちの中にある宝を必ず見つけ出してくださる。外見には決して惑わされず、どういう状態であっても宝を見つけ出していのちを回復しよう、と言っておられると思うのです。
貧しい人、困難の中にある人、悲しみや苦しみの中にある人々こそ、神が心を寄せられ、共にいると繰り返し言われるイエスさまは、自分自身でさえまだ出会っていない宝をもすでに知っておられ、いのちを回復しようとしてくださる。そのことを信じて、今日も生きたいと思います。
じっと待つ神
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.7.23
先週の「たね」に続いて、今週は「麦」の話ですが、ここに出てくる「麦」と「毒麦」とは、そういう別々の植物があるわけではなく、ふつうに畑にタネを撒いても、ある株には細菌のようなものが入り込み、成長中に増殖し、収穫後、知らずに食べると腹痛や下痢、嘔吐などをひきおこしてしまう麦のことを「毒麦」とよんでいたようです。生育途中は外見での区別がつきませんが、穂浪が熟してくると、一見して毒麦かそうでないか簡単に識別できたので、先に毒麦だけ刈り取り、間違って食べないように火にくべて焼き、それから改めて麦の収穫にとりかかる。そんな段取りが、当たり前だったイエスさまの時代の刈入れの様子を、天の国にたとえられたのだと思います。
これがなぜ天の国のたとえなのか、良い知らせなのか、釈然としないかもしれませんが、良い麦だけが生育されている理想郷が「天の国」だとは言っていないのです。
天の国とは、神さまが諦めずにタネを撒き続けてくださる場所。しかし同時に「敵意」を持つ存在も入り込み、毒麦をも知らないうちに撒き散らしていく。そして神さまは、それをすぐに成敗するのではなく、何よりも良い麦を一つでも傷つけたり失ったりしないしないために、時が来るまで両者を混在させておく。しかし、やがて最終的な時がきたら、すべてを明らかにしてくださる、そういう話ではないかと思うのです。
「私自身が毒麦かもしれない」そんな不安も頭をよぎるかもしれませんが、私たち自身の中に良い麦と毒麦が混在しているということも、きっとあるでしょう。また、世界に存在するどうにも解決できていないさまざまの悲しみと苦しみ〜戦争、飢餓、人権侵害、不条理〜なども、毒麦のしわざなのかもしれません。だから仕方がないと諦めるのではなく、わたしたちの痛みを一緒に感じながら、じっと耐えて、何よりもわたしたちの魂と命を守り抜こうと決めている、神さまの姿に目を留めたいと思います。
惜しみなく与えられる
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.7.16
皆様も何度も聞いたことのある「種まき」の話です。良い地に撒かれた種は、百倍もの実を結ぶけれども、落ちどころのわるい不運な種子は、鳥に食べられたり、石地ゆえに根が張れなかったり、太陽が当たらなかったりして、やがてその命が消えてしまう、という切ない話に聞こえます。種子にしてみれば、自分は一方的に「撒かれて」しまう側なので、状況をいかんとも変えられない、なんとか不幸な人生でないようにと祈るばかり、という気持ちになってしまうかもしれません。でも、わたしたち人間をタネに置き換えて、撒かれてしまった運命は変えられない、と言っているわけではない気がします。一方、わたしたちは生まれた時に「良い地面」か「わるい地面」か、すでに決まってしまっており、せっかく神さまがタネを蒔いてくださっても、地面の状況は変えられない。「わるい」地面にとっては、その状態を変えることは不可能で、タネをどうすることもできない、という話でもない気がします。
神さまは、石地だろうと藪の中であろうと、惜しげもなくタネを撒き続けてくださっている、それはきっと本当でしょう。しかし、撒かれたタネを無駄にするのは、だめな人だと決めつけてはおられないと思うのです。実際、わたしたちの心の中には石地があり、照りつける太陽もあり、藪もあります。それどころか、タネよりもっと大事なことがあると確信したり、「いらないものを押し付けられた」と感じたり、ちょっと齧ってポイと捨てるようなこともしているかもしれません。
そんなわたしたちの行動に、神さまは心を痛めるけれども、だからと言って、わたしたちを嫌いになったり、タネ撒きを諦めたりはしない、何があっても撒き続ける!そのような神さまの決意の物語なのではないかと思うのです。
疲れている人々よ、
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.7.9
心身ともに疲弊しているとき、わたしたちはまず「寝たい」と思うことでしょう。やるべきことは目の前に山積みでも、明日のことを心配せず、何もかも忘れて力を抜き、爆睡することができたらどんなにいいだろうかと。
今すぐに休みたいという声をいちいち聞いていては、日常生活が回らなくなる現実があることを知っているからこそ、身体の声に耳を傾けることは、きっと大切なのでしょう。今年2月に国内で行われたある調査によると、常に慢性的な疲れを感じている人は、なんと調査対象者全体の6割。身体の中の部位でも、目疲労や肩こりを訴える人が最も多かったそうですが、次に来るのが「精神的な疲れ」なのだそうです。そして精神的な疲れに対しても、多くの人がとりあえず寝る、スイーツを食べるなど、暫定的お手当をしつつ疲れを抱えたまま、毎日を走り続けているというのが現状なようです。
今日の福音書のイエスさまの言葉は、「(労働で)疲れた者、重荷を負う者」と、心身両方の疲労について言及しておられます。しかし、その解決方法として「このようにしなさい」と指示なさるのではなく、「だれでもわたしのもとにきなさい」と言われます。イエスさまの時代には通勤ラッシュも、人口の過剰集中もなかったと思われるので、その頃の「心の疲労」とはどんなことだったのだろうか、想像するのは難しいです。しかし、他国の支配による不条理や不平等、食べていくことの困難さは、人々を精神的疲労へと追いやったことは間違いないでしょう。そしてユダヤ教では「不条理な目に遭うのは先祖や本人のせい」と教えていたので、こんなひどい目に遭うのは、神が「これがあなたに相応しい人生」と定められたから、と信じる圧力が、さらに精神的な疲労へと追い込んだに違いありません。
イエスさまは、「休み」「安らぎ」を与えると約束されています。それは、何があっても、自分自身がどのような状態になっても、「わたしは神さまにとって大切な存在だと信じ続ける」という、イエスさまが私たちに与えてくださった「くびき」を、わたしたちが身にまとうことによって与えられるのではないでしょうか。わたしたちを能力のない者とみなし、すべての疲労や圧力を除去してしまうのではなく、それをモノともしない生き方へと招き、そして共に歩こう!と言っておられるのではないでしょうか。
人を恐れるな パート2
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.7.2
イエスさまはここで「わたしは〜剣をもたらすために来た」と言われます。少しギョッとする表現ですが、人の心や身体を傷つけ、威嚇するため剣を用いる、と言われているのではないでしょう。何故なら、いかなる暴力も世の中や人を変える力を持たないことを、イエスさまは行動で示してこられたし、権力や暴力の行使には徹底して反対してこられたからです。
あくまでも本からの聞き齧りに過ぎませんが、当時のユダヤ人文化の伝統として、「家族」という単位が、強烈に人々の生活を支配していたようですそこには様々な理由がありますが、「個人」という単位では生活が成り立たない、自然環境の厳しさ、ということがまず挙げられるでしょう。水を得るのにも、パン一切れを手に入れるのにも、お金で解決できる部分は少なく、人々の善意に頼る必要がありました。万が一、人々の反感を買い、村から排除されてしまうと、生きていくこともできなかった。その上長い間、軍事力を基盤とした諸国の支配下に置かれていたので、ユダヤ民族としてのアイデンティティや文化を守り継承する必要がありました。その結果、「個よりも民族/家族重視」という認識を強調せざるを得ず、全体の利益のためには、個を押さえつけるための脅しも使われたことでしょう。そして、支配する側は、伝統という名の元に過剰な管理や利用をしてきたのでしょう。
ところがイエスさまは、「自分の家族の者たちが敵となる」とも言われます。これは当時の人々にとっては、命を賭けても避けたいワーストシナリオ、「禁句」にイエスさまが触れたことになります。言葉を変えれば、「家族や近隣にいい顔をするために、安全を手に入れるために、他のことに目をつぶるのですか?」とお聞きになっているように思うのです。
そしてこれが2千年前の遠い出来事ではなく、「他人にどう思われるか」強烈に気にする社会に住むわたしたちにも向けられた問いなのではないでしょうか。仲間同志の安泰が最優先、自分はどう考えるかなんて面倒、周りの流れに同調している方が楽、という道を選ぼうとする時、イエスさまは「それは本当にあなたの真意なのですか、望むことですか」と正面切って、お聞きになります。いくら表面を取り繕っても、わたしたちの心の深みをご存知の神は、「わたしに信頼し真っ直ぐに進みなさい」、そう招いておられます。
人を恐れるな
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.6.25
「不幸な人三選」という話があります。どういう人かというと、①感謝や喜びを生活の中に見いだせず不満ばかりが心にある人、②自分はいつも損をしていると嘆く人、③人にどう思われているか常に気にしている人、それが不幸な人の3つの特徴だ、ということなのだそうです。
日常生活の中には感謝や喜びも必ずあるはずなのですが、それらをカウントせず、出来なかったこと不完全だったことのみに目に留め、記憶に残す不幸です。言い換えれば、神さまに支えていただいているという恵みは認めず、身体は動いて当たり前、ご飯を頂けるのは当たり前、家族が無事に帰ってくるのは当たり前で、期待どおりにいかなかったことを数え上げる生き方でしょう。
②には、すでに③的な要素が入っていますが、他人と比較し、同じ益が自分にないと「損をした」と感じる不幸です。例えば、親切に「してあげた」見返りを期待する、飢えている人に食料が手渡されると、飢えていない自分は「何ももらっていない」と不満を感じることなどです。
③は、他者の価値観に振り回されることが常となってしまい、自分の感じ方は重要ではないと思う不幸です。嫌われないように、非難の対象とならないように生きることが最優先と信じ、本当は価値観や思いは持ってはいるのですが、ないがしろにしてきたので「自分にはない」と思ってしまう人です。
この“三選”の人々に共通する大きな不幸は「神さまがいない」ということだと思います。さしあたりの損得に一喜一憂し、誤解されたらもう世の終わりと感じる一方で、不都合なことは隠しておけば大丈夫と思っています。少しドキッとする言い方ではありますが「隠されているもので知られずに済むものはない」「体は殺しても魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」と聖書は告げます。さまざまな困難の中でも、まずは「神さまに信頼することが大切」と力説しているのではないでしょうか。窮地に立たされても、誰かの罪を着せられても、不条理を押し付けられても、神さまは知っていてくださる、見ていてくださると。そして、わたしたちの都合や便利に向けて、ではなく、すべてはいつか、神さまのご計画の中で成就していくと、信じられること、それがわたしたちが目指すゴールではないでしょうか。
「収穫」の意味
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.6.18
毎週日曜日に行われる礼拝や、またその他のプログラムに関して、「忙しいのに、わざわざ時間を割くほどの魅力はない」という感想を聞くことがあります。そんな時に、これまで当たり前だと思い込んできたことや、習慣的に行ってきた事柄を、教会として改めて洗い出すのは必要でしょう。その一方、イエスさまとお弟子さんたちは、あの時代、どのように人々のニードに接しておられたのか、別の視点から聖書を読み返すことも役に立つかもしれません。
今日の福音書は、イエスさまが弟子たちを呼び集め、「弱り果て、打ちひしがれている」人々の間に派遣される話です。その時におっしゃったのは「天の国は近づいた」と告げること。具体的には、病人を癒し、死者を生き返らせ、重い皮膚病にかかっている人を清くし、悪霊を追い払う、それがイエスさまの指示の内容です。
亡くなった人を生き返らせるようになど、そんなことはあり得ないし、むしろ「怪しい宗教」とみなされる。イエスさまは無理なことを言われているか、あるいは一部の特別な才能を持った人だけに言われているに違いない、私ではない。そんなふうに感じるかもしれません。
でも、これではどうでしょうか。「あなたが、神の国は確かにあると信じているなら、それを告げなさい。するとあなたは、弱り果て打ちひしがれた人に寄り添い、生きる目的を失って死んだようになった人をもう一度立ち上がらせ、『重い皮膚病』にかかっている人も神に愛される資格があることを宣言し、損得勘定や他人の評価に取り憑かれて身動きできなくなっている人々を自由にする。」
冒頭で出てくる「収穫」を、イエスさまに従う「信者の数」という理解もあるかもしれませんが、それはイエスさまの意図とは違う気がします。「収穫」とは、社会の隅に押しやられ「自分には生きる価値はない」「神がいるならこんな人生を送ることをよしとされるはずはない」という想いにかられている多くの人が、それぞれの「病」のような状況から解放され、自分の足で立ちあがり、与えられた人生を生き切ることです。その先のストーリーとして、キリスト教のメンバーになるのか、仏教に目覚めるのか、あるいは宗教に関係しない生涯を送るのかは、神のみぞ知る。わたしたちに任されているのは、本心で神の国を告げること、それに尽きるのではないでしょうか。
マタイをよぶ
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.6.11
さて今日は、イエスさまの弟子となったマタイという人のお話です。ローマ帝国に税金を納めるために、人々から税金(通行税、人頭税など)を集める仕事をしていましたが、現代の「公務員」とは少しニュアンスが異なったようです。まず、「税を集める権利」をお金で買うことにより、徴税人になることができたので、元手を回収する必要がありました。次に、徴税人というステータスは確保しても、給料は出ないので、一定の税金額に上乗せをして徴収し、差額を生活費に当てていました。中には圧政を強いるローマ帝国の権力を利用し、かなりの私腹を肥やす徴税人もいたので、人々からは距離を置かれ、経済的には安定しているけれど、共同体の構成員としては認められず、神の恵みから漏れた嫌われ人、つまり「罪人」という烙印を押されていたわけです。
このような背景があったマタイですが、イエスさまは、この「罪人」に自分から声をかけ、食事まで共にしています。すると、当時の社会で「神の恵みから漏れた」他の人々も、噂を聞いて次から次へと集まってきます。
それを見た正統派ファリサイ人は違和感を感じ、「どうしてこんな人たちが来ているのか。ましてや一緒に食事をするなど正気の沙汰か」と、弟子たちに詰め寄ります。それがイエスさまにも聞こえたのでしょう。「私が喜ぶのは慈しみ、神を知ることであって、いけにえではない」(ホセア書6:6)と、イエスさまは旧約聖書を引用して答えます。
でもこの話は、神さまは誰でも受け入れてくださる、この中途半端な私さえ仲間に入れてくださる、というところで留まってはならないのだと思います。マタイとその仲間たちとの食事風景を「現代風に訳すと、ヤクザさんが大量に礼拝に来た感じ」とたとえた人がいました。もちろん黒服のイカツイおじさんが大量に教会に現れたら、正直なところ、わたしたちも違和感を感じてうろたえるかもしれません。でもイエスさまは、わざわざそういう方々をも招かれた。それはわたしたちも、思い込みや慣れ親しんだ「あたりまえ」の中で心地よく自己完結するのではなく、神さまがどういう方々に心を砕いておられるか目を向けて欲しい、そんな呼びかけにも聞こえます。
いつもあなたがたと共にいる
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.6.4
十字架で亡くなり、そして復活したのち昇天する際に、イエスさまが弟子たちに、最後におっしゃった言葉です。これを読んだ10年来の知人が、「私はいつも寂しい。イエスさまが私を見守り、寂しくなくなるなら、洗礼を受けたい。こういう動機は不純でしょうか?」と聞きました。
わたしは、ちょっと考えてからこう答えた次第です。「洗礼の動機は不純でかまわない。でも、見守っていただいていると感じたくても、あなたの好きなときや、期待どおりのかたちで、実感できるとは限らない。それでも神に信頼したい、という決意表明が、信仰なのではないかと思う。」
まるで禅問答ですが、わたしはこの人が、「寂しさから守られる」というご利益を与える神なら信じてみる、と言っておられるように感じました。つまり神を、手のひらサイズに納め、自分のコントールの範囲内で、都合よく働くなら認めよう、と言っておられるふうに。
ところで、キリスト教に入信しても、この世的なご利益は、ほとんどないと思いますが、最大の益の一つは、自分の存在を大切にする根拠を「神さまが大切にされているから」と思えることではないかと思うのです。
もし心のどこかが、「こんな私は愛される価値はない、ちゃんとできない私は駄目」という思いに支配されているときは、いのちがある理由も、自己完結しがちです。しかし、存在の根拠を神様に置く人は、たとえ周りから烙印を押されても、社会が認めなくても、そしてもれなくあなた自身も、「何かができる」からではなく、無条件に愛され大切にされることを知っています。それは期待するような順番ではおきず、わかりにくく、実感できないことも多い。客観的根拠や、物理的証拠なしに「わたしは神から愛されている」と信じるのは、なかなか難しいのだと思います。でもイエスさまは最後の最後に「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されました。この言葉をすぐには呑めなくても、神さまが本当に大切にしたいことは何なのか、じっくり見つめていくことは可能です。
明日から命と成長を表す「緑」の季節に入ります。晩秋までかかってゆっくりと、イエスさまの示された愛と命の軌道を辿っていきましょう。
聖霊を受けなさい
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.5.28
聖霊なる神を「わかろう」とすること、それは自分の持つ限界や弱さを認めることと関係があるのかもしれません。世の中の不具合や、人生で起きる様々な不条理に立ち向かい、少しでも人生をよくしようと努力する。当たり前かもしれませんが、そんな時、限界を越えるような状況にしばしば直面します。自分には越えて行けない、無理だと感じる壁が目の前に立ち塞がったとき、そこで撤退することも多いかもしれませんが、一方で「自分の力」では到底有り得ないような事柄へと導かれることがあります。「こんなことがなぜ出来たのだろう」と驚嘆するような、いわば自分では「所有していない」力が何処からかやって来て、物事が思わぬ方へ展開するような場合です。それは、わたしたちの「所有しているが隠れていた能力」が陽の目を見たからではなく、「必要なものはすべて、神さまがそのつど与えてくださる」ことの証であって、わたしたちを通して働く聖霊なる神の邪魔さえしなければ、必要なことはすべて「為されていく」ということなのだと思います。
イエスさまは息を吹きかけ「聖霊を受けなさい」と言われました。「聖霊を受ける」とは、すでにわたしたちと共におられる聖霊なる神の存在を認め、その働きに支えられていると、信じることではないでしょうか。
聖霊なる神を受け入れる人には主の平安があります。思いがけない事態に陥っても、期待や予定から大きく外れても、自分にできる努力はしつつ、パニックに陥ることはありません。聖霊なる神が共にいてくださると信じているからです。
聖霊なる神を受け入れる人は罪から解放されていきます。わたしたちがしばしば陥る「罪」(=的をはずす行動)ですが、困った時ほど全部自分でなんとかしようと力みます。それは聖霊なる神をないがしろにすること。自分の弱さを認め、間違いを認知するのは辛いことですが、まずは「的を外している」事実を認めること、そして神さまはどうなさりたいだろうか、謙虚に祈り求めること。それは、自身の「罪」から解放されていく、ということだけではなく、周りの人々にも波及し、罪の束縛から自由になっていく、そんなふうにイエスさまはおっしゃっているのではないでしょうか。
神の愛に生きる
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.5.21
イエスさまは、十字架で亡くなった後によみがえり、そしてお弟子たちの間に現れて、しばらく一緒に過ごします。そして数十日すると、「神の国」に戻って行かれますが、それを記念するのが「昇天日」(今年は5月18日)です。そういうわけで今日は「昇天後主日」。すでにイエスさまは「天」に帰られてしまっているので、聖卓脇の大きなろうそくも片付けられ、来週の日曜日に「聖霊降臨日」を迎えるまでは、不安や寂しさを少し感じる日曜日なのかもしれません。
ところで、「父よ、時が来ました」という言葉で今日の福音書は始まります。実際の聖書の物語としては、これから十字架にかかるその直前の場面なのですが、それは「絶対に引き返せない地点へと足を踏み出す時が来た」というイエスさまの覚悟であり、また、皆を地上に置き去りにして自分は逝かなければならないという切なさが入り混じった、イエスさまの切なる祈りでもあります。
そんな福音書の最後は、「彼らもひとつとなるためです」という言葉で締めくくられます。これは、イエスさまの十字架が「キリスト者たちが連帯し、結束するのに役に立つ」という話ではなく、一連の出来事が成就し、神さまの愛を人々が本当に知るようになった時が来たら、イエスさまが神さまと一体であるように、人々はもれなく愛を実行して生きるようになる、そういう意味で神さまと人々が一つとなる、という意味ではないかと思うのです。
イエスさまが地上に生まれ、人々の間で30年余の短い生涯を通じて身をもって伝えられたこと、それは「神さまの愛を知って、愛に生きること。それこそが永遠のいのち」ということではないでしょうか。わたしたちは誰ひとり、完璧な人間ではないけれども、少しでも、一瞬でも、神さまの愛に生きようとするとき、神さまが共にいてくださるのを実感するのではないでしょうか。
わたしにつながっていなさい
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.5.14
「つながっていなさい」と言われるとなんだか「束縛」のように感じることがあります。ブドウの木とはイエスさまのことであるとはわかっていても、「あなたは枝だ」と言われると抵抗を感じます。そんな固定的な生き方より、その時の気分で行きたいところにいつでも飛んで行ける方が自由だ、と感じることもあるでしょう。でもイエスさまは、束縛したり支配したりするために「つながっていなさい」と言われるような方ではないことを、わたしたちは知っています。
ユダヤの人々の常識では、「ぶどうの木」や「ぶどう園」は、イスラエルの共同体や神さまの国のたとえだったそうです。人々に約束されたすべてのことが、イエスさまの生涯を通じて果たされた、「神の国」が示されたのだと、聖書の著者は言いたいのかもしれません。父なる神は、不必要なものを取り除き「豊かに実を結ぶ」ために、丁寧にぶどうの木の手入れをする様子ですが、単に収穫量を増やすことが目的ではなく、ぶどうの木もその枝も、本来あるべき姿となるように、つまり神の国が実現されるために作業を絶やさない、そんな神さまの姿が浮かび上がってきます。
ところがわたしたちは、物事がうまく行っている時は、ひとりで何でもできるような気分に陥るのに、どうしたらよいのかわからない窮地にひとたびはまると、「神さまは一体何をしているのか」と詰め寄ったりします。それは、自分の弱さや情けなさと直面するのを避けるにはよい方法かもしれませんが、わたしたちがそうしている間も、淡々とぶどうの木の手入れをなさる神さまです。
つまり、わたしたちが自力では抜け出せないような泥の中にいる時、そこに降りてきて一緒に這い回り、共に居てくださろうとする神さまの姿を表しているのではないかと思うのです。そしてそのことこそが「神の国」の到来なのかもしれないと思うのです。祈りの言葉さえ浮かばない苦しみの中にあるとき、イエスさまはわたしたちに呼びかけ続けてくださいます。「あなたがどう思っていようと、わたしはあなたとつながっている。どんな時も決してあなたを一人にはしない」と。
心を騒がせないがよい
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.5.07
「わたしの父の家には住む所がたくさんある」と続くこのイエスさまの言葉は、ご葬儀の福音書として読まれることでも有名です。復活されたイエスさまと、再び会うことができた弟子たちですが、その一方で刻々とお別れの時が近づいています。これから先、何を心の拠り所として、進んでいくべきなのか。イエスさま無しで、果たして本当にやっていけるのか。目標も見えにくく、そして何より心細かった弟子たちへのイエスさまの言葉です。
人と人とのお別れを経験するわたしたちも、同じ気持ちは経験しているでしょう。たとえさようならを言う時間があっても、今まで居たその人がこの世からいなくなる。それは世界が終ったようでもあり、今まで当たり前だった安定と確かさを失う世界。捉えどころのない不安は、まさに落ち着く場所を失った魂のようです。
しかし、こんなわたしたちに、イエスさまは具体的なイメージを残してくださいました。地上の命が完結した「その後」についてはイエスさま自らが場所を用意しているので心配はないと言われるのです。
「そこは3LDKか?」と、ある信徒に聞かれたことがありますが、それは分かりません。温泉付きかどうかも、豪勢な食事をいただけるのかどうかも、書いてありません。でもわかっていることは、「イエスさまが、他でもないあなたのために、安心して居られる場所を準備くださっている」と言うことです。イエスさまの示される世界についてわたしたちは、「どういう贅沢が待っているか」ではなく、「必ずどんな時も、一緒にいるから心配はいらない」という約束に心躍らせるべきなのではないでしょうか。
イエスさまの約束を知りながらも、しかしわたしたちは弱く、すぐにこの約束を疑い、あっという間に「心を騒がせ」ます。しかしそれは、一回でも心を騒がせたら駄目、という話ではなく、弱さをご存知のイエスさまは、何度心を騒がせても、またハッと我に帰ることを待っておられると思うのです。このお約束を心の底から信じようと努めるとこそが、わたしたちに出来ることなのではないでしょうか。
人のために祈る
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.4.30
日曜日の礼拝の中で、旧約聖書から一つ、新約聖書からから2つ、合計3つの聖書が読まれます。最近は、福音書のお話ばかりが続きましたので、たまには使徒書の内容について、少し触れてみたいと思います。今日の使徒書(2つ目に読む新約聖書)には、ステファノという人が登場します。
弟子たちの中で役割分担が出来た頃のこと。礼拝やお祈りに責任を持ち、イエスさまの教えを人々に伝える弟子たちとは別に、食料の配布など、人々の必要に目を向ける担当者もいた方がよいということになりました。そこで弟子の中から選ばれたうちの一人がステファノだったというわけです️。
ステファノは不思議な力を持っていて、困った人を助けたり、様々な素晴らしい働きで多くの人に勇気を与えましたが、一方で、そんな彼をねたむ人々が出てきます。彼らは、嫌がらせ目的で論争をふっかけたりしますが、ステファノは豊かな知識と深い洞察力によって論点を明確にし、きちんと応答します。また、偽証を元に裁判にもかけられますが、ステファノはその意図を見抜き、伝統に固執するがゆえに神への信頼が薄れ、結果としてイエスを十字架にかけてしまった、と述べました。もはや弁論でステファノを懲らしめることができなくなった人々は怒りにかられ、議会から彼を引き摺り出して町の外に放り出し、殺害してしまいます。
そこまででしたら、普通?の酷い話なのですが、ステファノは石を投げられながら、2つの祈りを残しています。一つは自分のことです。生涯の最後が迫ってきた時、やはり少し怖かったのでしょう「イエスさま、わたしの霊が肉体を離れた時、受け留めてくださいますね」と祈ります。
もう一つは、今まさに自分を殺そうとしている人々のために祈っています。「彼らがこれ以上罪を重ねませんように」と。
ステファノのすごいところは、罪を正当化し残虐行為を重ねるような人々の中にさえ、神が創られた人間の姿を見ていたということではないかと思うのです。自分を破壊しようとする人々も、元々は神さまが愛され大切にされた存在。彼が最後まで怒りを怒りで返さず、嫉みを妬みで返さなかったのは、「善人ぶっていた」からではなく、神さまへの絶大な信頼をすべての基としていたからではないでしょうか。
エマオへの遠回り
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.4.23
いわば「お祭り騒ぎ」のようなイースターのお祝いも、わるくはないのですが、イースター(復活節)は1回限りではなく、しばらく続きます。
これは、暦の上でそうなっているから、ということだけではなく、神さまがなさろうとした計画全体を理解し、本当の意味で「わかる」ためには、わたしたちの想像を超えた時間や経験が必要なのでしょう。
聖書には、イエスさまの十字架の意味や復活について、腑に落ちていないお弟子さんたちの姿があちこちに描かれていますが、ずっと一緒にいたこの人々でさえ、イエスさまの「十字架と復活」の意味が本当にわかるまで、少し時間が必要だったということなのかもしれません。
今日の福音書は不思議な設定です。時は十字架刑が行われた3日後のこと。お墓に行った女性たちが「イエスは生きている」と言っていると聞かされますがにわかには信じられず、暗い顔をしたまま、何故かエマオへ向かうお弟子たちです。隠れているのも危険だと判断したのか、それともあまりの恐ろしさにエルサレムを脱出したのか、そこは書いてありません。最初は誰が一緒に歩いているのかさえ、全く気がつかなかったお弟子たちでしたが、そのまま夕暮れとなり、宿をとった家で夕食のパンを裂いた時、急に「イエスさまとずっと一緒だったこと」を知るのです。これから何か起きるか、とイエスさまから直接、何度も告げられていたにもかかわらず、全然リアリティがなかった。しかも、自分達の描く「神の子」の行く末とかけ離れていたゆえ、これからどのように生きたものか、途方にくれていたのでしょう。しかしイエスさまは、無理解な彼らを見捨てるのでもなく、わざわざエマオまでやってきて、なんとしてでも励まそうとされる。
それは、わたしたちが「復活は知っている」と思いながら、現実は「暗い顔」をしたまま、魂に喜びがなく、燃えた心もなく、惰性で生活をしているとき、それはエマオへの道を歩いているのと似ているのかもしれません。そして、イエスさまは一見無駄にもみえるエマオへの遠回りにさえ寄り添ってくださり、なんとしてでも「どんな時も一緒にいますよ」と必死になってわたしたちに伝えようとされる。「復活」は、完成した出来事ではなく、頑ななわたしたちの心に、今も静かに、少しずつ染み込んでいるのではないでしょうか。
「もし右の目があなたをつまずかせるなら、 えぐり出して捨ててしまいなさい。」<マタイによる福音書5
管理牧師 司祭 ロイス 上田亜樹子
2023.2.12
日本では「言葉化する」ことをあまり良しとしない風習があるせいか、逆に言葉にしない表現に対して、許容度が高いように思います。
怒鳴ったり、物を乱暴に扱うなどの表現までに至らずとも、不快な顔をしたり、返事をしなかったり、明らかに表情では苛立ちを隠していないのに、何を不快に感じたのかは言葉化せず、「言わなくてもわかるでしょ」といったような一種の「会話」が通用する社会なのかもしれません。
もしこれが、双方向のやりとりで、お互いに表現し合うような場合であれば、「会話」として成立するのかもしれませんが、大概の場合はどちらかが察して相手の主張を呑み、やりとりをする前に終了してしまうことがほとんどでしょう。
というのは、そういった「会話」を始めた側が、自分の立場がより優位であると踏み、言葉以外のやりとりを始めてしまう(そして「理解できないのが悪い」)ので、「間違った」行動だとは認識されにくく、罰則規定に当てはめるのも難しい。
しかも「言わなくてもわかってほしい」という甘えが混じっていることも多いので、なかなか厄介です。
ユダヤ人社会の律法に照らし合わせても「間違い」とは認識されず、罰も課されないような事柄は、神さまの愛に反してはいても、見過ごしにされてきました。
密かに心の中でつぶやいたり、周りにばれることはないと思って、こっそり考えたり妄想を抱いたりする人に対し、「神さまの目に、だめなことはダメ」と、イエスさまがおっしゃっている話なのではないかと思います。
当時の律法が「間違い」と定めたことについては、現在の日本国憲法以上の拘束力を持ちましたが、律法で禁止されていないことをしても、大丈夫だと思う人に対する「ダメ」なのでしょう。
つまり、ズルをしても、愛が欠落した行為をしても、力関係を悪用して相手に圧力をかけても、「自分は律法には違反していないから安全」と思っている人々に対して語られた言葉です。
しかもイエスさまは、具体的な例を挙げ、心の中で人を罵倒したり、欲望を満たす対象として人を眺めたり、それがたとえ口から出ることはなくても、神さまの目にはどちらも同じ罪(=的はずれ)であるということではないでしょうか。
どきりとするのは、言わなければバレないと、どこかで思っているわたしたち、あるいは意識にさえのぼっていない腹黒い言動について、わたしたちは「裁きを受ける」と言われている点です。
しかしここで誤解してはならないのは、「裁きを受け」ないためには何一つ間違うな、とイエスさまから言われているわけではない、ということです。
わたしたちのさまざまな過失をほじくり出し、重箱の隅をつつくような詮索をして、何ひとつ悪さをしないように、わたしたちを縛りつけるのが、イエスさまの意図ではない、ということは忘れてはならないと思います。
こっそりと心の中で描いた「悪事」は、他人は気づくことはなくても、その行動の積み上げが、いつしか本人の心と身体と魂の健康をむしばみ、神さま不要の人生や、愛に基づかない判断、そして最終的には自分自身を絶対化する傾向へと引きずられる。
それらに気がつかない恐ろしさを、心からの憐れみをもってイエスさまは心配してくださっているのに違いないのです。
今日の特祷(顕現後第6主日)で「人々と国々を健全なものとしてください」と祈ります。
神さまの望みはただひとつ。喜びと感謝とともに、十全に与えられたいのちを、わたしたちが健全に生き切ることです。
それを妨げる様々な妨害は至る所に存在する事実は否定できませんが、それらは神さまから来たものではないし、また神さまが望んでおられることでもない。
むしろ、一見魅力的に見える危ない罠に、わたしたちが自ら近づいていくこと、そして最終的にはその罠にからめとられていくことに、心配してくださっているイエスさまの言葉です。
それに対するわたしたちの責任は、イエスさまを通して示された「愛」が、すべての行動の基盤となるように、日々努めることではないでしょうか。