管理司祭 ロイス上田亜樹子
26.3.15
ヨハネによる福音書 9:1〜13、28~38
エルサレムでの出来事です。イエスさまとお弟子たちは、町の中を歩いているときに、目の見えない人とすれ違います。すかさず彼らは訪ねます,「この人が、生まれつき目が見えないのは、誰の罪のせいですか?」これを聞かずにはいられない情景を想像すると、ちょっと嫌な感じもしますが、お弟子たちの心の中は、結構複雑なものがあったかもしれません。
イエスさまのお弟子さんたちもまた、生まれつき目が見えない人は、罪と関連していると決める律法の中で育ちました。なおのこと、それを見た町の人々は、それまで「罪の子だ」と見下してきた人の目が見えるようになると、急に自分たちと同等に並ばれることに不安を覚えたのでしょう。ファリサイ派の人々のところに連れて行き、律法がどう裁くか、納得のいく答えを求めます。しかしファリサイ派の人々も混乱している様子が、聖書の中に赤裸々に描かれます。ファリサイ派の混乱は、ユダヤ人の中へと広がり、また本人に聞くことになりますが、その人は最初から一貫して主旨を変えてはいません。最終的にはユダヤ人たちも理解することができず、エルサレム市街地から追い出します。それを聞いたイエスさまはこの人と再び会い、その人の中に信仰が宿ったことを確認します。
この物語を振り返ってみると、お弟子たちにしても、近所の人々にしてもそして両親も(息子に物乞いをさせている両親というのも悲しいですが)、またファリサイ派・ユダヤ人たちも、何かしら「失うもの」の多い人々です。それは必ずしも物的な事ではなかったとしても、イエスさまとかかわることによって、生活の安定や社会的地位が揺さぶられることを恐れたのでしょう。そして何よりも恐れたのは、彼らが信じる価値観が破壊されることだったかもしれません。理解できないことが起きても、神の恵みの中にいる保証を得ていると信じてきた、そして、その中にいないように見える人々を、上から目線で眺めていたが、立場が逆転してしまう。「罪」の中にある人々を共同体から排除することが正義だと信じてきたのに、イエスさまの言動によって、ひっくりかえされる出来事でした。
わたしたちも「現代の律法」にどこか縛られていませんでしょうか。全く縛られない状態は無理としても、もしその律法を根拠に、誰かをどこかで見下している気持ちがあれば、それはイエスさまが望んでおられることの対極かもしれません。


